所のベルをひっぱる時の心持は全く独特でした。私達がゆく頃、ほかのひとは大方おられず、曾禰先生がおられることがあり、
「ヤア」
と、一寸眼鏡の上から眼差しを越して御挨拶になりました。その御様子は今日もあの時分のままです。小使のお爺さんは、縞の着流しで、紺セルの前かけをかけていました。地下室がある。青写真を水に入れてある。箱がある。それらすべては大変珍らしくて、あたりの様子は威圧的であって、私どもは事務所の中ではおとなしく振舞いました。父が話しかけるときでなければ、子供の方からは決してものを云いませんでした。それにまた、事務所の机に向っているときの父の姿の中には、うちにいるときの父とは違う緊張と威厳がある感じでした。
時々妻や娘たちを事務所によらせて昼飯や夕飯に出ることは晩年までつづきました。こういう父の一面に公私混同をきらう気質がよくあって、仕事のことになると、家族であるなしということの情実に支配されることを極端にさけていたと思われます。長男の国男は建築をやっているのですが、父は建築家として彼を見ることではなかなか点が辛うございました。息子だからと云うので同じ事務所にいても特別に扱うことをひどくいやがっており、自力をつけさせようとしていたのですが、弟として見れば、技術上の先輩として父親として、して貰えたらと思ったようなこともまたあったでしょう。
父は、自身さえ予想しなかったほど急に没する三日前、一九三六年一月二十七日まで、手帳を書き入れています。その頃つかっていた万年筆がこわれていて、インクの出る方を逆にあっち側に向けたような妙な持ち方で、しかも、これで書きいいから奇妙なものだ、と云って書いていた、その細かい、どこかに激しさのこもった筆蹟です。お正月の元日は、林雅之助氏と蓮台寺温泉に泊ったことが書いてあり、七日にはその休暇旅行のつづきで、保科氏、宮島氏と湯河原のあたりを散歩したことがあり。このときの三人の写真が、没後届けられ、一目見て、父の相貌が、これまでのどの写真にもなかった憔悴と哀れさ、何とも云えぬ鬼気めいたものを湛えているのに心を打たれました。
けれども、その頃父はもとより自分の体の内部に起りかかっていた深刻な変調を自覚しなかったのでしょう。八日には「A・M・8。寿江子ヨリ電話。アタミホテルニ来遊ノ旨、歓迎ト答ウ。A・M・0木村徳衛氏来遊土佐(二字不明)解
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