書かないで娘の生活の推移を包括している父の方を近く思うところもあった。
昭和三年の八月一日に、二番目の弟が自分から二十一歳で生命を絶った。そのとき私はモスクワにいた。モスクワからレーニングラードへ行って、郊外の「子供の村」と呼ばれる昔の離宮のある公園町の下宿に暮していて、その報知の電報をうけとった。
あとからその前後の模様を書いた手紙が来たが、それは父が書いた手紙であった。丁度そのころの日本の若い精神がその青春の嵐とともに直面していた歴史的な波瀾だの、そのことと弟の内生活の相剋だのの点には、余りふれられていなかったが、愛する息子を喪ったもう若くない父親が、八月の蒸し暑い雨の夜、その雨のしずくに汗と涙を交えて頬に流しつつ、湿ってとかく停ってしまう扇風機をもって土蔵の半地下室に向う低い窓から、必死に新しい空気を息子のために送ろうと努めた状況は、その手紙に生々しく描かれていて、遙な土地と新しい社会の空気の中にあって、それを読む娘を震撼させた。涙をふいては読み、読んでは涙をふいた。その手紙の終りには、父がその打撃に雄々しく耐えようとしているとおり、百合子も悲しみに耐えようとしているのは結構
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