りでなくそれがよろこびのおどりなら、その歓喜の踊りを、どうして今の女の、無限の悲しみで踊りぬかないのであろう。
カッスルののこした芸術は、踊るあらゆる若者に愛されるのだ、というような科白での芸術論は、この場合、極めて非芸術的である。監督も勿論大した馬脚をあらわしているのだけれども、アステアにしろ、どうして、そこのところにこそ表現されるものとしての芸術の真髄が潜められていることをつかまなかったのだろう。
カッスル夫人がほんとうの芸術家の情緒に生きているならば、あのクライマックスでこそ踊らずにはいられないだろうと思う。女として自分の裡に活きているそのまざまざとした歓び、そして、この苦痛。体を凝っとはさせていられまい。そこで踊る彼女であってこそ、今やカッスルのパアトナアとしてのみのカッスル夫人ではない一個の新しい独自な踊りてとして生誕し得るわけである。
風邪をひいて臥ていた稲子さんのわきに坐って、私が一生懸命その心持を話したら、稲子さんは、ふっと笑った顔になって、もし男のカッスルが生きのこる方だったら踊ったかもしれない、と云った。私たちは女の作家なのだから、そういうことも決してその時ぎ
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