結婚記念の夜、二人にとって思い出の深い踊り場で、良人が指図しておいた舞踊曲の奏されるのを聴きながら、良人のあらわれるのを待っている。時は徒にすぎて、遂にカッスル墜死の報告が、その懐しい舞曲のなかへもたらされるのであるが、彼女にとってその刻々のうちに予想されていないでもなかった大きい打撃が遂に事実となったとき、そして音楽は益々情をこめて彼等の歓びの思い出の曲を奏しているとき、悲しみと愛との怒濤にもまれて、彼女はどうしてそのとき泣きながら、涙の顔を愛する良人に向ってふり仰ぎながら夢中で踊りの身ぶりで、その苦しみを表現する自然の欲望に導かれなかったろう。
あんなに微妙に愛のよろこびを表現しておどった夫妻、それがこの一生一度の悲しみのとき、悲しみの堰がやぶれて踊らないというのは、何と奇妙で不自然だろう。映画では気の毒な月並の手法で、長椅子にかけたまま宙を見つめるカッスル夫人の前に、幻の良人が庭園の並木の間を次第に彼方へ遠のきつつ独り踊ってゆく姿を出しているのである。それならそれでいいから、その幻の踊りの姿に我ともなく体をひき立てられ、どうして悲しみの踊りをおどらないのだろう。よしや悲しみの踊りでなくそれがよろこびのおどりなら、その歓喜の踊りを、どうして今の女の、無限の悲しみで踊りぬかないのであろう。
カッスルののこした芸術は、踊るあらゆる若者に愛されるのだ、というような科白での芸術論は、この場合、極めて非芸術的である。監督も勿論大した馬脚をあらわしているのだけれども、アステアにしろ、どうして、そこのところにこそ表現されるものとしての芸術の真髄が潜められていることをつかまなかったのだろう。
カッスル夫人がほんとうの芸術家の情緒に生きているならば、あのクライマックスでこそ踊らずにはいられないだろうと思う。女として自分の裡に活きているそのまざまざとした歓び、そして、この苦痛。体を凝っとはさせていられまい。そこで踊る彼女であってこそ、今やカッスルのパアトナアとしてのみのカッスル夫人ではない一個の新しい独自な踊りてとして生誕し得るわけである。
風邪をひいて臥ていた稲子さんのわきに坐って、私が一生懸命その心持を話したら、稲子さんは、ふっと笑った顔になって、もし男のカッスルが生きのこる方だったら踊ったかもしれない、と云った。私たちは女の作家なのだから、そういうことも決してその時ぎ
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング