々の生活からひき緊められるものの作用が大きく働いたのではなかったろうか。俳諧の流行そのものが、云ってみれば新興の文化であり、商人と一般庶民階級の自在な感情表現の欲求にその地盤をおいた文学であった。談林派の俳諧というものは、その先達であった貞門と同じように俳諧を滑稽の文学と見ており、談林は詩型のリズムに自由を求めると共に懸詞にも日常語を奔放にとり入れ、奇想巧妙な譬喩《ひゆ》を求めるあまり、遂には、

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山の手ややつこりや咲いた花盛
引窓や空ゆく月のおとし穴
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というような皮相な思いつきに堕した。
 鬼貫はこの傾向に真面目な疑いを抱いた卓抜な何人かの芸術家たちのうちの一人で、「まことの外に俳諧なし」と思い定めた。「只心を深く入れて、姿ことばにかかわらぬこそこのましけれ」と考え、

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さは/\と蓮うごかす池の鯉
行水の捨てどころなき虫の声
なんと今日の暑さはと石の塵を吹く
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というような純真な作品を生んでいる。釣月軒という常套的な俳号から宗房が桃青という号に改めた感情も、俳諧を言葉や思いつきの遊戯以上のものと感じた緊張がたたまれていて興味がある。桃青にとって追々俳諧は人生の遊びではなくて、人生そのものの芸術化として真剣に映って来ており、芸術の本質のその発展には、水道工事の小役人の暮しも深刻な現実のもののあわれによって彼を豊富にしたと云えるであろう。官吏として順当な出世が望めなくなったから俳道に身をうちこみはじめたというよりも、俳諧の道によってしか生きる心が表現出来ないと益々思いきめて、深川の杉風の鯉の生簀《いけす》の番小屋に入ったとも思える。台所の柱に米が二升四合も入るぐらいの瓢《ひさご》をかけ、三方水で囲まれた粗末な小屋に芭蕉庵と名づけ嵐雪などと男世帯をもった三十七歳の桃青の心の裡は、なかなかの物すさまじい苦悩と模索とに充ちていたと想像される。「殊の外気詰り」なひとで、嵐雪も俳諧のほかは翁を外し逃げなど致候由、と二代目団十郎の書いたもののなかに語られている。
 同時代の芸術家として、近松門左衛門や井原西鶴等の生きかたと芭蕉の生涯とは今日の目におのずから対比されて様々に考えさせるところがある。宗房より二つばかり年上であった大阪生れの西鶴は、通称を平山藤五と云い、有徳な町人であっ
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