う気持にかかずらうことはちっともいらないと思う。私たちの今日に生きている感覚に訴えるものをもっていなくて、しかし文学古典の表の中では意味をもっているという作品は実にどっさりある。その場合は、現代の心に響くものはないということに、歴史のすすみの歓びがあるのであって、古典にとっても現代にとっても些も不名誉なことではないと思う。でも、芭蕉の芸術はどうだろう。私は俳諧のことは何にも知らない。全くの門外漢なのだけれども、折々読んだ句集の中から与えられて来ている感銘が多く深いところをみれば、彼の芸術には今の瞬間に息づいている何ものかがあるにちがいない。ここにぬきがきした僅の句は、私たちに理解されるというばかりでなく真実の共感があるものばかりである。芭蕉の芸術の特質である「さび」は同時に日本人の人生態度の底を流れるものであるから、芭蕉の分らない日本人というものはあり得ない。そういう通俗の断論はこれまでに随分流布している。特に、この三四年は日本が日本を再発見する必要に立たされて、文化や芸術の面で日本の古典が再認識を試みられるようになって来た。そして、これまで余り古典にふれなかった文化層の人々がとりいそぎそういうものにとりついて行って、それらの芸術の逸品に籠っている高い気品、精魂、芳香に面をうたれて、今更に古典の美を痛感すると一緒に分別をも失って、それぞれの芸術のつくられた環境の意味と今日の私たちの現実との関係を見失った欽仰讚美の美文をつらねる流行をも生じた。私は俳諧の道にはよらず散文の道をとおって、この芸術の大先達に近づいて見たいと思う。後年、芭蕉が芸術の完成へ辿りついたまでのいきさつというものは、時代と人との相互的な姿を示して感興つきないものがある。誰でも知るとおり、芭蕉は生まれたときからこの名を持っていたのでない。松尾宗房と云い、伊賀国上野町の城代藤堂家の家臣で、少年から青年時代のはじまりはその城代の嫡子の近侍をしていた。既にその時代、俳諧は大流行していて若殿自身蝉吟という俳号をもって、談林派の俳人季吟の弟子であった。宗房もその相手をし早くから俳諧にはふれていたとみられている。「犬と猿世の中良かれ酉の年」というような句を十四歳頃作ったという云いつたえもある。
蝉吟公が没して、当時二十三四歳であった宗房は「雲と隔つ友かや雁の生別れ」という句を親友に残して上野町から京大阪へ出奔し
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