場所なりと知りたくて。――
汗ばんでいたひろ子の体が、小刻みに顫えた。二番目の弟の進三はもう四年南方に出征したままである。四つと二つの男の児をもつ直次の妻の、つや子の卵形の若々しい顔と古風な眼ざしが迫って来て、ひろ子はますます息苦しくなった。
小枝は、さっきから人参を貰いに出かけて留守である。少年たちの歓声は、午後の中に愈々《いよいよ》高まり愈々燃え生きて育ってゆくものの生命の力に溢れている。ひろ子は嗚咽《おえつ》した。
母のこれからの暮し、つや子と子供らの生涯、ひろ子にとって、それらは、みんな自分の生活のなかのことであった。母はどれだけかの辛棒で、重吉たちのこれまでの生活からうける打撃を持ちこたえて来た。直次が居り進三が居る。それだからこそ、重吉もひろ子も云いつくせない安心があった。
母のこころのうちを思うと、ひろ子は、その手を頂いて額に当てたい気がした。
籐椅子のおいてあるところ迄来て、ひろ子はそこに腰かけた。同じ籐の小さい円卓の上に母の手紙をひろげたままおいた。
重吉は、このことについて何と考えるだろう。母は、おそらくひろ子に書いたと前後して、重吉にも手紙を出したにちがいない。
重吉が、母の見舞にゆくようにとひろ子に云っていたのは、久しい前からのことであった。母の住んでいる所が最近特別な軍事都市になって、バスの中にさえ憲兵と書いた腕章の兵士がきっと一人はのっていた。その空気を思うと、ひろ子は行き渋っていた。この手紙を受けとってからも、猶ひろ子が網走行きに執着しているのと、そちらはやめて、母のところへ行くのと、どちらが重吉にとって、気がすむことだろう。
しばらくして、帰って来た小枝が健吉を呼んでいる声がした。まだ土間に立ったままでいる小枝のところへ行って、ひろ子は母の手紙をわたした。
「ちょいと、読んで」
「何かあったの?」
眼を走らせて、小枝は蒼くなった顔でひろ子を見上げた。
「おばちゃん。――どうなさる?」
「行かなけりゃ。重吉さんは、きっと私がそうすると思うだろうと思うわ」
「でも――何てことでしょう!」
行雄も、やがて自転車で戻った。
「じゃ、切符は僕が何とか手配しましょう。姉さん、すぐ荷づくりなさいよ」
話をきくと、行雄がそう云った。
「姉さんが歩いて行っちゃひと仕事だが、僕は自転車だから何でもないよ」
こういう調子で、行雄がひろ子の行動にのり出してくれるのは日頃ないことであった。
「でも大丈夫かなあ? 一人で……何しろ凄いよ、今の汽車は……」
「私もそれが心配なのよ」
「仕方がないわ」
ここの田舎へ来るうちにも、そのひどさは十分身にしみている。ひろ子は、弁当だけもって行くつもりであった。
「ここでいくら苦心したって、又どうせ東京で乗換えなけりゃならないんだもの」
「夜行でない方が安全だよ、同じことにしても……」
東側の縁側へ行って、ひろ子は例の行李を開いた。広島のことをラジオできいたとき、ひろ子はすぐ安否をきいてやった。きょうの速達は十八日に田舎の局のスタンプがおされている。ひろ子の手紙とはゆきちがった。そして、これは二十日目についた。
母やつや子が、直次のことを知ったのは、既に十一二日ごろのことであった。偶然、直次と同じ班の友達が、ふらりと、
「直次君、戻ってでありますか」と店先へ訪ねて来た。
「いえ、戻って居りませんが……どうでありますか」
話はそのようにして初めて耳に入ったのであった。
ひろ子は、行李の中のものをすっかり出して、大風呂敷へうつした。仕事の用意をすこしと、そして底の方へ喪服を入れた。
直次が、除隊後第一回の応召のとき、母はひろ子をつれて、わざわざ讃岐の琴平へ詣った。雨が降り出した。下の土産屋で、番傘と下駄とをかり、下界から吹き上げる風に重い傘を煽られまいとして、数百段の石段を本堂まで登りつめたとき、ひろ子は脚がふるえて動けないようだった。雨にうたれながら、母はお守りを貰ったり、祈祷をさせたりした。母ばかりでなく、何十人もの男女がそのあたりを右往左往しているのであった。なかには裸足で髪の上から油紙をかぶりお百度をふんでいる若い女もあった。杉の大木の梢すれすれに寄進された幾本もの祝出征の幟旗が立ち並んでいた。武運長久を願ってのことだが、五月雨に濡れそぼり、染色を流したそれらののぼり旗は暗い木下蔭で、幽霊じみて見えた。
「直次の出征のときの旗をもって来ようかと思ったが、却ってもって来なんでよかった、のう、あんた」
ひろ子の耳へ顔を近づけて母がそうささやいた。その母の一心に上気に上気した顔にかかるおくれ毛や眉毛に、雨のしずくが光った。
荷物をつめかえているひろ子は、家族的な追憶にみたされた。それは厳粛で、きびしい戦争をとおして営まれる日本の庶民のつましい生活の網目にみちているのであった。
網走へ、と思ってこの行李をつめるとき、ひろ子の胸には一筋のうたの思いがあった。選んで入れる一つ一つの布《きれ》について、そのうたはひろ子の胸に鳴った。そのうたの思いは、このような形で現実の内容をもって来た。
労苦に備える勇気のこもった気持で、翌日ひろ子は街道をあちこち歩いて、移動の手続きをしたり、旅行外食券に代えたりした。
四
運よく、その列車の中でひろ子は座席がとれた。
その代り、坐ったと思ったらもう動けなくて、送って来た小枝に声さえかけられなかった。
駅を出るとじき、通路にまで立っている旅客をかきわけて、
「検札をいたします」
中年の大柄な車掌が、巻ゲートルで入って来た。
「これは二等車ですから、乗車駅から三倍の賃銀を払って頂きます」
そういう声につれて、後部で押し問答がはじまった。押し問答の尾をひいたまま、ひろ子のところへ来た。切符を出して見せた。鉛筆で切符のうらにしるしをつけて、先へ行くかと思ったら骨っぽい指をのばして、
「それは御使用ずみか?」
と、ひろ子が手にもっていた裂地《きれじ》づくりの紙入れをさした。その意味がすぐのみこめなくて、ひろ子は、見せた切符を挾んでおいた黄色い内側を開けたまま、
「どれかしら」
「これは御使用ずみですか」
同じ切符入に挾んであった山の手線のまだ使ってない切符をぬきとった。そして、ぼんやりしたひろ子が、一言も云わないうちに、
「頂いておきます」そして、次の番へ移った。
その頃、地方新聞は不正乗車の激増を大きく扱っていた。ひろ子の乗った駅から小一時間先の大きな駅では、毎日二百人以上の不正乗客があって、それは益々増加しつつあると書かれていた。この列車は、その都会が始発である。車掌は気を立てている。いかにも過労らしい、肉のつくゆとりのない肩のあたりで制服は色あせている。この車掌が、山の手線の切符に対してまで責任を負う必要があるのかないのか分らなかったが、ひろ子はむしろ車掌の癇癪に同情した。鉄道従業員たちは、機銃の恐怖の中であれだけの努力をしとおした。復員、進駐と、その後寸暇も与えられていないのであった。
ひろ子の斜隣りで、二十歳をすこし出たばかりの海軍士官の外套を着た神経質な顔つきの男が、まだ少年の丸い顔をした部下らしい青年をつれて大荷物をもちこんでいた。それが、紙片を出して問答している。
車掌は紙片をとり上げて、前進した。この間に、さっき後部で開始された悶着の相手が車掌に追いついて来た。
「おい、車掌さん。そんなへちがてえことを云ったって、一文だってお前の得になる訳じゃあるめえし、いいだろう? たのむぜ」
国防服の前ボタンをすっかりあけはだけて、シャツの胸を見せている巻ゲートルは、狎《な》れ狎《な》れしい大声を出した。
「おい、車掌」
車掌は、背中に平手うちでもくらったように素早く振り向いた。
「車掌、とは何です! はじめっから私の損得で云っているんじゃありません。鉄道省の規則がそうだから、その規則通りにしなければならないんです」
「いいじゃねえか。どうせこんな滅茶苦茶な世の中になっちまって、今更二等も、へったくれもあるもんか」
「こんな世の中になったから、なお更キチンとしなけりゃならないんです。勅語は何のために出たんです!」
ひろ子は、乗り合わせたこの列車が、ただの列車でなかったことを知った。これは明らかに一種の潰走列車である。
斜隣りの海軍士官がどこかへ立って行って帰って暫くすると、再び車掌が入って来た。荷物をまたぎまたぎ来て、その若い士官の横に立った。
「じゃ二百八十三円頂きます」
大股をひらいて座席にかけたままむっとした面持で、蒼い顔の若い士官は大きい紙幣入れをひらき、新しい十円札をつかみ出すようにして車掌に渡した。その代りとして紙片がかえされた。
「これで事務が片づきましたから申しますが、さっきの雑言は、あれは、どういうわけです」
ぎごちなく神経のこわばった若い士官は、こんな情況になることとは予想もしなかったらしく、剣相な上眼づかいで、低く何か答えた。
「生意気だ、気にくわんとおっしゃるが、私のどこに生意気な挙動がありました。不正乗車をしているのは貴方です。私は車掌として事務をとっただけじゃないですか。ひとこと罵倒でもしましたか。じき手続をして上げますと云っただけじゃありませんか」
言葉にもつまるという激昂で、車掌は青年士官を睨まえた。士官の方も、もう一ヵ月前ならばと文字に読まれる形相で睨み上げている。その面上につばきするように車掌が云い捨てた。
「あなたのようなのが軍人だから、日本は潰れたんだ!」
ひろ子は、どちらの顔も見ていられなかった。
その若い士官の前には、襟章をもいだ制服の陸軍将校がかけていた。となりには、東北のどこかの大きい軍需会社が解散して、東京へ還る途中らしい国防服だが、重役風の男がいる。ひろ子の真前にいるのも陸軍の古参将校で、制服の襟章がはぎとられている。
騒動がしずまって見渡した車室は、網棚から通路から座席の間まで詰めに詰めた大荷物で、乗っているのは男ばかりであった。何かの角度で、軍と関係があったと見える風体の男ばかりであった。女と云えば、ひろ子のほかには子供づれの細君が一人乗り合わしているきりである。
東北の自然の間を、列車は東京に向って進行した。時々、迷彩代りに、車体へ泥をぬたくったままの列車とすれ違った。復員兵と解除になった徴用工とを満載した有蓋貨車、無蓋貨車とすれ違いながら那須の荒野にかかった。
線路のすぐそばから灌木の茂みが乱暴にきり開かれて、木の色の生新しいバラック風の大建物が、幾棟も、幾棟も、林の方へ連っている。それらはいま無意味そのもののように、愚劣そのもののように、がらんとして九月の西日に照らされている。
「これだけだって、ちっとやそっとの無駄じゃない」
ひろ子の向い側の中老人が呟いた。
「うけ負った奴は、さぞふんだくったんだろうなあ……」
並んでかけている将校の視線も、その尨大な濫費物の上に止っていた。しかしその視線は空虚である。中老人は、黙りこんだ。列車は、単調に動揺し車輪の音をたてていよいよ東京へ近く進行する。
車室にはぎっしり人間が乗っていた。けれども、互を貫くたった一つの共通な気分も興味も示されていなかった。みんながてんでんばらばらであった。めいめいが自分自分にかかずらい、急に変化した自分の利害と見とおしとにかかずらっている。
海軍士官のとなりの重役風の人物は、事業で損をしなかった人物の円滑さで、向い側の陸軍軍人に、折々|四方山《よもやま》ばなしをしかけた。
「神田辺はのこったそうですな。これで、少しはいい本も出るもんでしょうか」
軍人は上眼づかいで、
「さあ……」
それぎりてんでとり合わない。話はそのまま消えてしまった。ずっと先に、白い毛糸の長靴下、しゃれた白い毛織の短ズボン、白の上衣、臙脂《えんじ》色のネクタイをつけ、一目して相当な地位の「南方関係」の男がいた。瀟洒《しょうしゃ》としたその服装と丸顔の上にある不機嫌さは冷酷できたないものの中へ自分が落ちこんだという眼つきで車内の混乱を
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