たせるために、ひろ子はこれまで十何年もの間、どんなに数々の言葉と心づくしを重ねて来ただろう。
 今、治維法関係の思想犯は解放するという記事をよんで、ひろ子は自分にとって最後の、そしてもっとも耐えるに難い苛責がここに在ることを感じた。ポツダム宣言が受諾されたばかりのとき、ひろ子は、簡明率直な歓喜にうたれた。ふるえる思いで、このニュースをうけとった重吉の心のうちを思いやり、いつ帰れるか、いつ帰るだろう、網走へ迎えに行って、一緒に海をわたって帰って来て見たい。そう思いつめた。
 時がたち、一ヵ月もすると、第一、ポツダム宣言を実行するにしては余りいかがわしい政府が居すわりつづける事に懐疑をもちはじめた。本当に、治安維持法は廃止され得るのだろうか。いつ? どのようにして? 永年苦しめられている日本のあらゆる進歩的な人々が、同じ感じをもった。そして、渇望のあらわれた数千万の目で、前途を見守っていたのである。
 治安維持法という壁の、どこの扉があく、ということが明らかになった瞬間、ひろ子は、火焔のうちに救い出されず、のこされそうになっている我子を呼ぶ母親の気持になった。重吉は? 重吉は? みんな出て来る。だが、重吉は?
 しかし、ひろ子は狂乱する相手を目前にもたなかった。重吉の、かえがたく、いとしい命を滅ぼそうとしている焔は、誰の目にもその危険をまざまざ示す焔の色としては映っていないのである。
 ひろ子は、その新聞を手にもったまま、のろのろと、いつもの机の前へ戻った。叔母も縫子も気の毒げに黙って、ちりぢりにわかれた。
 小一時間ほどして、
「縫ちゃん、いる?」
 坐ったところから呼ぶひろ子の声がした。
「はい、はい。何ぞ用でありますか」
「すまないけれど郵便局まで行って貰えるかしら」
 二つの書留速達と赤インクで書いた封筒を出した。
「ともかく塚本さんと永田さんに、頼もうと思うの。様子によっては永田さんにあっち迄行って貰って、いい加減なことを、されないようにしなくちゃね。そう思うでしょう?」
 塚本さんというのは、一家のみんなも親密な重吉の幼ななじみの親友であった。永田さんは弁護士で、永年煩雑な事務的な仕事をたゆまず取りはからってくれた。これらの人々に、ひろ子は、新聞記事のことをかき、重吉に対しては具体的にどう取りはからわれようとしているのか、調べて貰うように依頼した。永田さんには、御判断によって網走に行って下さる必要があるなら、即刻、塚本氏から旅費をうけとって出発して欲しいと書いた。自分が、どういう理由にしろ東京にいない間のとっさの用のために、いくらかの金が用意してあった。
 縫子は、すぐ出かけた。
 ひろ子は、自分がここにいて、目下の事情の中で、しのこされていることはないだろうかと思いめぐらした。重吉の予審と公判の行われていた数年の間、法律を知らないひろ子は、誰でもが持ち合わせている常識と小説をかくものの自然な洞察、想像力、構成の能力とでもいうようなものだけをたよりに、判断し、行動して来た。いくつもの粗忽《そこつ》をし、手ちがいをし、重吉に不便をかけた。

 八畳の室に、ひろ子一人がねていた。二三日で十月になるのに、ここでは蚊帳がいった。おそい月が出た。大名竹の黒い影がガラス越しに縁側の障子にさしている。
 昔、田端に、天然自笑軒という茶料理があった。そこの中庭の白壁に、酔余に大観が描いたという竹の墨絵があった。
 自笑軒で、芥川龍之介の年忌の句会が毎年もよおされた。重吉が、はじめて発表した労作は、芥川龍之介の文学とその死とが語る日本の知識人の一つの歴史的転換についての究明であった。
 ひろ子が、重吉のその論文の出ている雑誌を読んだのは、遠い外国の質素なホテルのテーブルの上であった。その時分のひろ子は、どんな気持で暮していただろう。そのようにして名だけを知った重吉が、こんなにとけこんで自分の生涯にない合わされて来ようと、思ってもいたろうか。重吉自身、若々しい精根をきざみこんでそれらの論文をかいていたとき、僅か三年後に牢獄の生活がはじまり、やがて無期懲役というような宣告が与えられようと、想像もしなかったであろう。
 だが、もしかしたら、重吉は、あらゆる可能に向って用意されたこころもちで生きて働き、ひろ子を妻としていたとも思える。
 かすかな風で葉のそよぐ大名竹の影絵を眺めながら、枕の上で大きく眼をあいているひろ子に、四月下旬の昼ごろの日光に照し出されたほこりっぽい公判廷の光景がよみがえって来た。
 判決言渡しが予定されていたその日、午前十時頃から東京は小型機の編隊におどかされた。定刻までに裁判所へ行っていた永田さんから、中止の電話がかかった。ひろ子は、持てあつかっていた鉄兜を肩からおろし、もんぺをはきかえた。そのうち、空襲警報が警戒警報にかわった。すると、またベルが鳴って、裁判所では、急に開廷することにきめたからいそいで来るようにと知らせて来た。
「何と意地わるなんでしょう。家族が間に合わないと知れているのに――」
「私の方で出来るだけ時間をはかっていますから、ともかく早くおいで下さい」
 ひろ子の住居から裁判所までは一時間かかった。歩いて、それから都電にのって、また歩いて、その間にかかる時間は、ちぢめようにもほかにてだてはないのであった。ひろ子は、本当に息をきらして、裁判所の三階にある公判廷に入って行った。
 開廷されていて、ほそおもての裁判長が何かを読み上げていた。最前列に重吉がかけていた。いつもは離れたところにいる二人の看守が、きょうは左右について同じベンチにいる。ひろ子は、永田さんのうしろにかけた。ガランとした公判廷にいるのは、それぎりの人数であった。
 裁判長が読み上げているのは、判決言渡しの理由をのべた文章であった。きいていて、ひろ子は、奇怪な気がした。数年にわたる予審や公判は何のために行われたのであったろう。重吉や同志たちが事理をつくし、客観的状況を明らかにして抗争した事件の本質や、現象の内容は、その文章の中では、十二年前に書かれた一方的な告訴の理由とほとんど変更されていなかった。わずかにあくどい形容詞がとりのぞかれ、故意に計画的に行われた殺傷のように説明されていた部分が、偶発の事実として認められているばかりであった。重吉の努力や陳述がどうであろうと、よしんばそれがどんなに条理のとおったものであろうとも、この事件はこちらとしてこう扱うときめているのだ。そう云う頑固さが文章にみちている。
 ひろ子は、それを素朴としりながら、あらたに驚歎を感じた。仮にも大学を卒業し一個の良人であり父親でもある五十がらみの男が、こうも非条理の文章を読みあげ、それを妻子に見せられた姿であろうか、と。
 裁判長は、理由をよみ終った。主文と、区切って、声を高め、無期懲役に処す、と読んだ。つづけてすぐ事務的に、この判決に不服ならば一週間以内に控訴するように、と早口に云い添えて、裁判所関係のものは一斉に並んだ椅子から立ち上った。重吉も立った。ひろ子は、自分の知らないうちに起立して、こちらをふりかえった永田さんの実直な色白い顔がひどく紅潮しているのを見た。
 裁判長を先頭にして、一同ぞろぞろ控室に入って行く。その間に、重吉がふりかえってひろ子を見て、笑った。それはいつもの重吉の笑いかたであった。快活に、口元をゆるめその唇の隅にすこし皮肉な皺をよせ、それは重吉のいつもの笑顔であった。それに誘われて、ひろ子も笑顔になった。が、ひろ子の笑顔は一瞬だけのものであった。ひろ子は、つかつかとベンチをよけて、重吉に近づいた。左右からはさんでいる看守は、せき立てるように歩きかけている。ひろ子の身ごなしとその顔つきが、全体で示している感情を重吉はうけとり、理解し、それを鎮めるような、もう一つの笑顔をした。そして、弁護士へともひろ子へともとれる云いかたで、
「じゃ、あさって、又」
と云い、大きな手錠のはめられている手で編笠を頭へのっけて出て行った。その日は、土曜日であった。
 そのとき、ひろ子はどんな眼色になっていただろう。それは見えなかったけれども、正直な永田さんの顔が、あんなにもぱっと赤くなったのと、重吉が、永年の病気と日光不足の生活とで、滑らかな蒼い顔をしながら、黒く柔かく、しかも屈することのない眼ざしで、ほとんど滑稽を感じているような笑顔をしたのとは、生涯忘れることはないだろう。
 その重吉の眼と笑顔とが、その夜更け、大名竹の影のうつっている広い秋の蚊帳のなかにあった。白い覆いのかけられた小さい枕のところにあり、ひろ子の二つのてのひらの間にあった。重吉のまだ短く刈られていない髪は、すこし長く額の上に乱れかかって、それをかきあげるとき、指に軽かった。その髪に、ひろ子の指がふれてから、何年が過ぎたことだろう。
 無慚《むざん》、という言葉がある。そして、無慚な事実、というものもある。もし、今度、治安維持法撤廃によって思想犯が解放されるとき、重吉やその同志が、ほかに罪名をつけられているのを理由に出獄させられないとしたら、それは、無慚である。無慚すぎる。
 無慚すぎるそのことを、決してあり得ないことだと考えられない権力の発動のしかたの無慚さこそ、無慚そのものではなかろうか。
 重吉にひかれ、あこがれる情感のふかいはげしい濤のうねりと、無慚な権力の重さにあらがう思いとで、ひろ子は、もえる床の上におき上った。
 これまで十二年の間、面会に行った五分か十分の間、重吉の顔の上に混乱や苦悩があらわれていたことは一遍もなかった。その顔をうちみれば、ひろ子は苦しさを忘れるすがすがしさがあった。腸結核をわずらって、やっと接見室まで出て来た夏の日、重吉は、椅子にちゃんとかけている体の力さえまだ無かった。ねまきを着て、ずり落ちたように椅子にもたれこんでいる重吉の髪がすっかり脱けおちて、テーブル一つをへだてたひろ子のところから見ると、生え際がポーとすいて見えた。それは、絵にかく幽霊の髪の生えかたそっくりであった。ああ、これはお化けの絵にある髪だ。ひろ子は目を見開いてそれを見つめた。そんなに、死にかかったとき、重吉は、やはりひろ子の救いとなる笑顔をもっていた。そして、その笑顔をみれば、おのずからそれにこたえて、ひろ子の丸い顔も、いつしか爽やかな、さざなみのようなこころがうつった。
 けれども、ひろ子は、時々自分にどんな夜があるかを知っていた。おのずから、重吉にもそういう夜が、或はそういう永い昼間があることを感じていた。様々な夜と昼をとおして、自分たちが不思議な一艘の船であることを感じて来た。夜と昼とは、あてどもなく繰りかえされる海の波のようなものではなく、進む船にとってはそこにあと戻りすることのない時間の経過があり、歴史の推移があるのであった。
 月が西にまわって、蚊帳の上に大名竹の影が少し移った。どこか遠くの山よりで、故郷へかえる朝鮮人の酒盛りがあり、かすかに謡う声や手拍子の音が風に運ばれて来た。

        十五

 重吉のうちへ来たとき、リュックを背負って、女学生靴をはいたひろ子は、やせて、色も黒くやつれていた。
 田原へ来て、笑うこともふえて、ひろ子はいくらか、ふくよかになった。朝起きて、鏡を見て、
「ほら、又すこし美人になった」
と冗談を云った。
 しかし、今眠られない夜がはじまった。ひろ子は、眠った夜については、話したが、その夜々が眠りを失ったとき、決して誰にも訴えなかった。眠れない夜をもたないで生きて来ている人々というものが此の世の中にあるだろうか。まして、戦争がはじまってから。――ましてや、戦争は終ったが、幾百万のかえらぬ人々があって、その母や妻たちが、すっかり相貌の変じた彼女たちの人生について、不安をもって思いめぐらしているとき。――
 重吉が獄中生活をはじめた初めの間、ひろ子と同じ立場の留守の妻たちは、少くなかった。思想犯の妻たちは、良人の入れられている拘置所の待合室でいつの間にか知り合い、事件について話し合い、互に元気を与え合った。
 数年たつうちに、待合
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