って来た。狭い日本に張りつめたこの重石《おもし》は、先頃発表されたポツダム会議の決定によれば、直ちにとりのぞかれ、粉砕されるべきものとして示されている。支配者たちは、自分たちのこんな敗北さえも、野良や工場に働く人々には、すぐのみこめないような云いまわしであらわした。そこには、何処かで、出来る丈握っている繩の端を手離すまいと腐心している陰険さがうかがわれるのであった。治安維持法を、どういうやりかたで、どんな範囲で、彼等は処理しようとするのだろうか。
 ひろ子の書く手を止めるのは、この点について、経験した者でなくては想像しにくい程の苦しい不安と警戒とであった。一言、うれしい、という率直な表現をもつことさえも、重吉への手紙の中では安心できなかった。妻であるひろ子の、打ちひろげすぎた感情が、生きるために最小限の条件を確保するためにさえ、根づよく闘わなければならない重吉の体に、見えないところでてきめんな意地わるい仕打ちとして返されて行くようなことがあってはならない。こうして綴る一行一行のうちには、身もだえのように、脈搏つ心のうねりがある。いがぐり頭になって、煉瓦色の獄衣を着て、それでも歴史の前途はいとど明るし、という眼色でいる重吉は、このうねる熱さを彼の掌のなかにうけとった時、自分たち二人が時間と距離とにへだてられつつ、結ばれて生きて来た年月を何と顧るだろう。にわかに急な斜面が展《ひら》けたような今日の感動を、重吉もぐっと、その胸でこたえている。それが、まざまざと感じとられるのであった。
 ひろ子が机に向っている障子の外は、つい一昨晩まで、夜じゅう恐怖のうちに開け放されていた縁側である。いくつもの風呂敷包。リュックサック。食糧を入れた石油カン。そういうものが、まだほっぽり出されたまんま、そこにあった。雨戸が一二枚ひき残されていて、その節穴から一筋矢のように暑い日光が薄暗がりに射し込んでいる。亀の子に細引をかけた小型の行李が、丁度その光の矢を浴びている。
 自分も重吉のいる網走へ行って暮そう。文筆上の自由職業をもっているひろ子が、そう決心したのは七月下旬のことだった。何も知らずに、巣鴨宛に書いた重吉への手紙が、網走へ本人を送致したからという役所の附箋つきで戻されて来た。粗末な紙片に、にじむインクで書かれた網走という文字を見たとき、ひろ子は、自分の生きて来た張合が、すーと、遠くへ引き離された感じがした。網走というところは、名前ばかりで知っている。そこへやられた重吉と自分との間には、狭い日本の中ながら幾山河が在る。空襲が益々苛烈になり、上陸戦の噂もあったその頃の事情で、この幾山河は、場合によっては、二人の間が何年間か全く遮断されるかもしれないという心配をもたらした。
 ひろ子は、そこで暮していた東京の弟の留守宅の始末を全速力で片づけて、ともかく東北のこの町へ来た。そして、小一里ある停車場や交通公社へ行って津軽海峡を渡る切符が買えるのを待ちながら、旅の仕度をした。
 ひろ子のいるところでさえ八月になれば、山々の色が変化した。網走には、もう秋の霧が来ているだろう。オホーツク海からの吹雪が道を塞ぐ前に、せめて北海道まで渡りたい。ひろ子は寒いところでの暮しに役立ちそうな物を選んでは、夏の西日の下で小さい行李につめた。知り合いというようなものもいないそこで、どんな生活が出来るのか見当もつかなかった。保護観察所の役人は、くりかえし、ひろ子が行った先で人と交際することを禁じた。もうその頃、海を渡る旅行は体一つでさえ困難になっていた。道具めいた何一つも持っては行けない。それでも、棲むところは網走ひとつに思いきめて、ひろ子は青森が空襲をうける度に、あら、またよ、と歎息した。青森市は焼かれ、連絡船の大半が駄目になったのであった。
 切符が手に入れば、明日にもそちらへ行くと書いた手紙を封筒に入れながら、ひろ子は、ほんとに、この行李が海をこえるのかしらと思った。東京の親切な知人が、つてのない網走へゆくときめたひろ子を思いやって、すこし離れた都会にいる或る人に、紹介をたのんでくれた。待ちかねるほどたって返事が来た。ハガキにせわしい字で、当地も昨今は空襲を蒙るようになった。知人も疎開したり死亡したりしていて御希望に添うような便宜は得にくい、御主人によくお話になり、御渡道はお見合わせになるが然るべく、という意味が書かれていた。
「御主人によくお話になり」――云いつけで、ひろ子が遠いところへ行きでもするように。――懇篤な紳士と云われる人が、身に迫った戦禍に脅えて、浅く迅く視線を動かして身辺を視ている落付かないさまが、ハガキの面に溢れていた。またそこには、一人の女としてひろ子が体にからめて運んでいる面倒な事情も、おのずから影響していると思えた。
 実の弟の家へ逗留しているというだけなのに、町の特高は、同じ頃そこへ用向で訪ねて来た客たちの関係までを、訊きただした。駐在は親切で、お客があるときも、その名と年とを書き出してくれさえすれば、すぐ応急米を渡すから、と小枝に云った。小枝はよろこんでそのとおりにした。特高が来て、どうして知っているかと思うようなつまらない名をいうとき、それはみんな、米とつながる姓名なのであった。どうでしょう! 小枝は、眉をもち上げて首をすくめた。
 それらのあれこれに拘らず、ひろ子は網走へゆこうとしているのだった。
 封筒につかう糊をとりに立ってゆくと、茶の間に、きき馴れない男の声がした。もう大分酔いのまわった高声で、
「はア、どうも、こういう超非常時ででもねえと、思い切ってこちらさアは来にくくてね」
 行雄が、それに対して、おだやかに応答している。
「何しろ、もうこうなっちゃあ、酒でも飲むほッか、手はねえです。馬鹿馬鹿しいちゃ、話にもなんねえ。いかがです一杯――わしらの酒でも、はあ満更馬鹿にしたもんじゃない、純綿でやすって――ね、旦那、一杯。つき合いちゅうもんだ」
 ひろ子は、下駄をはいて、杏《あんず》の樹の陰から台所へまわった。小枝が、一方に柴木を積み上げた土間に跼《かが》んで、茶の間のやりとりに耳を傾けながら馬鈴薯の皮をむいていた。
「お客?」
 こっくりして、小枝が困ったという表情をした。
「だれ?」
「与田の音さん」
 町の、統制会社へ出ている男であった。
 ひろ子は、小さい健吉をつれて、往還の角にある郵便局へ手紙を出しに行った。いかにも明治になっての開墾村から町に変った土地らしく、だだっぴろい街道に、きのうまでは軍用トラックとオートバイが疾走しつづけていた。きょうは、そういうものはもう一つも通らない。街道は白っぽく、埃りをため、森閑として人気なく、おしつぶされたように低い家と家との間にある胡瓜《きゅうり》畑や南瓜《かぼちゃ》畑の彼方に遠く、三春の山が眺められた。
 草道をかえって来ると、茂った杉の木かげの門から、音さんの腕に肩をからまれながら出てゆく行雄のワイシャツ姿が見えた。

 十五日から、ラジオは全国の娯楽放送を中止した。武装解除について、陸海軍人に対する告諭、予科練、各地在郷軍人に与うる訓諭、そういう放送が夜昼くりかえされた。その間に、広島と長崎とを犠牲にした原子爆弾の災害の烈しさと、そのおそろしい威力とについての解説がきこえた。銀行のとりつけを防ぐため、経済は安定であると告げる放送。食糧事情について安心せよという農林大臣の放送。これからは平和日本、文化国日本を再建せよと命じる文部大臣。ラジオが途切れる間の沈黙にも耐えないという風で、次から次へ、諭告は、ひろ子達のいる田舎の町に鳴りつづけた。どの家でも熱心に、ラジオをかけっぱなしにして聴いていた。が、聴いているそれらの顔に滲んでいるのは、云いあらわすに術のない一種の深いあてどなさと疑惑であった。今日までこれ程の思いをさせて、勝つ勝つとひっぱって来た繩を、ぷっつり切って、力の反動でうしろへひっくり返るということさえもないかのように、別な紐をつき出してさあこんどはこれを握れと云われても、人々はどういう心持がするだろう。
 半年ぶりで富井の家の電燈も煌々《こうこう》とついて、昔ながらのすすけた太い柱や板の間をくまなく輝かせるようになった。台所の天井に届く板戸棚の前に、大きくて丸い漬物石がいつの間にか転がっていたのが、ひょっこり目について皆を笑わせたりした。馴れない明るさは、テニス・シャツをブラウス代りに着ているひろ子に、自分の体の輪郭までをくっきり際立って感じさせた。井戸端の電燈がついたので、いつ廊下を通っても閉った雨戸のガラスから、荒れた花壇のある深夜の庭が、はっきり見えた。久しぶりの明るさは、わが家の在り古した隅々を目新しく生き返らせたが、同時に、その明るさは、幾百万の家々で、もう決して還って来ることのない一員が在ることを、どんなにくっきりと、炉ばたの座に照らし出したことだろう。強い光がパッと板の間を走ったとき、ひろ子はよろこびとともにそのことを思いやって鋭い悲哀を感じた。
 夜の明るさが、政府放送のたよりなさと拙劣さとを、ひとしおしみじみと感じさせるような雰囲気のうちに鈴木貫太郎内閣が退陣した。そして東久邇の内閣が代った。

        二

 杏の樹の下枝へ結びつけた荒繩の輪と納屋の軒下とにかけて、竿がわたしてある。ゆすぎ出した浴衣を、ひろ子は、その竿にかけている。
 納屋では小枝が、馬鈴薯の腐ったのをよりわけていた。その年は、丁度わるい時季に雨が続いて、その地方では、麦も馬鈴薯もひどく傷められた。殺虫剤を入れた噴霧器を裸の背中に背負った五兵衛が、納屋の格子へ立ちよって馬鈴薯の処理を教えていた。
 納屋の話題はいつの間にか変ったと見えて、小枝が、
「まあ、そうお! たまげたわねえ」
 土地の言葉と東京弁をまぜこぜにして、独特に愛嬌のある云いかたで感歓しているのがきこえた。
 ひろ子が、二枚めの洗濯ものを腕にかけて来て干しはじめると、
「おばちゃん」
 小枝が呼びとめた。
「連隊じゃね、何でもかんでも、持てるだけ持っていけって、わけているんですって。自動車にドラムカンのガソリンまでつけて、もらって行った人があるんですって。――凄いわねえ」
 富井の家の一郭は、開墾村の南よりの端れに近かった。連隊は、北の端にあった。五兵衛の家は、北の町角にあって、連隊には近かった。兵隊たちは、ひもじかったり、茶が飲みたかったりする時には、村じゅうどこと選りごのみなしに南の端の富井の台所の上《あが》り框《がまち》にまで入って来て、腰をかけた。そして、茶を所望したりした。しかし八月十五日以来は兵隊たちの歩く道が、きまった。連隊から、小一里はなれた市中の停車場へ通じる堤下の一本道だけを、続々と兵隊たちが通った。背中の重い荷物で体を二つに折り曲げ、気ぬけした表情の老若の兵士が、重荷で首をうしろへつられる関係上、誰も彼も上眼づかいで、のろのろと、遠くの山並は美しい旧街道を、停車場さして歩いて行った。その街道は五兵衛のところの裏からはじまっている。五兵衛一家やそのあたりのものが、おのずから敏い農民の眼で戦争の間から今日まで、どっさりのことを目撃して来たのは当然のことであった。
「牛肉や豚肉みたいなものまで、とり放題だったんですって」
 主婦らしい羨望が小枝の声に響いた。その頃、一般の家庭ではどこでも、肉類などを買うことが出来ずにいた。
 五兵衛は、小枝の報告ぶりをわきに立ってきいていたが、
「はア、たまげたね。まあ、無えつうもんはまず無えな。毛布だれ、軍靴だれ、石油、石鹸、純綿類から、全くよくもああ集めたったもんだ。民間に何一つ無えのは、あたり前だね、あれを見れば」
 それを自分の眼で見て来た驚きを、披瀝した。
「話のほかよ。奴等、背負《しょ》えるったけ背負って帰れ、って云わっちゃもんだから、はあ、わが体さ四十五貫くくりつけて、営門を這って出た豪傑があります」
「まあ」
 小枝もひろ子も笑い出した。
「そりゃそうさね、営門さえ背負って出れば、そいだけは呉れてやるつうんだもん、一生に一遍這う位、何の
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