、結局どうする力もないんだから、聞かされるとおり黙って聞いていりゃいいんだ。そう云って、眼のうちに暗い険しい色をうかべる時もあった。戦争が進むにつれて、行雄の気分はその面がつよくなった。行雄のそういう気持からすれば、息子がきかされる話についても神経の配られるのを感じて、ひろ子はたくさんの云いたいことを黙って暮して来たのであった。
 十五日は、そのままひるから夕方になり、やがて夜になっても、村じゅうの麻痺した静けさは変らなかった。
 翌日、ひろ子は余り久しぶりで、却って身に添いかねる平和な明るさの中でもんぺをぬぎ、網走の刑務所にやられている良人の重吉へ、たよりを書きはじめた。ひろ子が小娘で、まだ祖母が生きていた時分、祖父の遺愛の机として、赤銅の水滴だの支那焼の硯屏《けんびょう》だのが、きちんと飾られていたその机の上には、今ここで生活している若い親子たちの賑やかでとりまとまりのない日々を反映して、伸一の空襲休暇中の学習予定の下手なプリントや、健吉が忘れて行ってしまった玉蜀黍《とうもろこし》の噛りかけなどがころがっている。
 ひろ子は、少し書いては手を止めて、考えこんだ。網走の高い小さい窓の中で、重吉は、きっともう戦争の終ったことを知っているだろう。十二年の間、獄中に暮しつづけて来た重吉。六月に、東京からそちらへゆく前、面会所の切り窓から「まあ半年か、長くて十ヵ月の疎開だね」と云って笑った重吉。その重吉こそ、どんな心で、このニュースをきいたであろう。ひろ子は、こみ上げて来る声なきかちどきで息苦しいばかりだった。
 この歳月の間に、ひろ子は検閲のある手紙ばかり千通あまりも書いて来た。いつか変通自在な表現と、お互のわかりあいが出来て、自然の様々な景観の物語などのうちにも、夫と妻との微妙なゆきかいがこめられるようになっているのだった。手紙をかき出して、ひろ子は、いつか習得させられた自分の気の毒なその技術を、邪魔なばかりに感じた。ひろ子は、はっきり、それこそその手紙の眼目としてききたいことがあった。たった一行それだけ書けばいいということがあった。しかし、まだ、それは書けまい。いつお帰りになるでしょう。書きたい言葉はその一行である。ほんとに、重吉はいつ帰れるだろうか。
 この十四年ほどの間に、日本の治安維持法は、ナチスの予防拘禁所のシステムまで輸入して、息つくすきも与えないものとなって来た。狭い日本に張りつめたこの重石《おもし》は、先頃発表されたポツダム会議の決定によれば、直ちにとりのぞかれ、粉砕されるべきものとして示されている。支配者たちは、自分たちのこんな敗北さえも、野良や工場に働く人々には、すぐのみこめないような云いまわしであらわした。そこには、何処かで、出来る丈握っている繩の端を手離すまいと腐心している陰険さがうかがわれるのであった。治安維持法を、どういうやりかたで、どんな範囲で、彼等は処理しようとするのだろうか。
 ひろ子の書く手を止めるのは、この点について、経験した者でなくては想像しにくい程の苦しい不安と警戒とであった。一言、うれしい、という率直な表現をもつことさえも、重吉への手紙の中では安心できなかった。妻であるひろ子の、打ちひろげすぎた感情が、生きるために最小限の条件を確保するためにさえ、根づよく闘わなければならない重吉の体に、見えないところでてきめんな意地わるい仕打ちとして返されて行くようなことがあってはならない。こうして綴る一行一行のうちには、身もだえのように、脈搏つ心のうねりがある。いがぐり頭になって、煉瓦色の獄衣を着て、それでも歴史の前途はいとど明るし、という眼色でいる重吉は、このうねる熱さを彼の掌のなかにうけとった時、自分たち二人が時間と距離とにへだてられつつ、結ばれて生きて来た年月を何と顧るだろう。にわかに急な斜面が展《ひら》けたような今日の感動を、重吉もぐっと、その胸でこたえている。それが、まざまざと感じとられるのであった。
 ひろ子が机に向っている障子の外は、つい一昨晩まで、夜じゅう恐怖のうちに開け放されていた縁側である。いくつもの風呂敷包。リュックサック。食糧を入れた石油カン。そういうものが、まだほっぽり出されたまんま、そこにあった。雨戸が一二枚ひき残されていて、その節穴から一筋矢のように暑い日光が薄暗がりに射し込んでいる。亀の子に細引をかけた小型の行李が、丁度その光の矢を浴びている。
 自分も重吉のいる網走へ行って暮そう。文筆上の自由職業をもっているひろ子が、そう決心したのは七月下旬のことだった。何も知らずに、巣鴨宛に書いた重吉への手紙が、網走へ本人を送致したからという役所の附箋つきで戻されて来た。粗末な紙片に、にじむインクで書かれた網走という文字を見たとき、ひろ子は、自分の生きて来た張合が、すーと、遠くへ
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