ろ子の行動にのり出してくれるのは日頃ないことであった。
「でも大丈夫かなあ? 一人で……何しろ凄いよ、今の汽車は……」
「私もそれが心配なのよ」
「仕方がないわ」
 ここの田舎へ来るうちにも、そのひどさは十分身にしみている。ひろ子は、弁当だけもって行くつもりであった。
「ここでいくら苦心したって、又どうせ東京で乗換えなけりゃならないんだもの」
「夜行でない方が安全だよ、同じことにしても……」
 東側の縁側へ行って、ひろ子は例の行李を開いた。広島のことをラジオできいたとき、ひろ子はすぐ安否をきいてやった。きょうの速達は十八日に田舎の局のスタンプがおされている。ひろ子の手紙とはゆきちがった。そして、これは二十日目についた。
 母やつや子が、直次のことを知ったのは、既に十一二日ごろのことであった。偶然、直次と同じ班の友達が、ふらりと、
「直次君、戻ってでありますか」と店先へ訪ねて来た。
「いえ、戻って居りませんが……どうでありますか」
 話はそのようにして初めて耳に入ったのであった。
 ひろ子は、行李の中のものをすっかり出して、大風呂敷へうつした。仕事の用意をすこしと、そして底の方へ喪服を入れた。
 直次が、除隊後第一回の応召のとき、母はひろ子をつれて、わざわざ讃岐の琴平へ詣った。雨が降り出した。下の土産屋で、番傘と下駄とをかり、下界から吹き上げる風に重い傘を煽られまいとして、数百段の石段を本堂まで登りつめたとき、ひろ子は脚がふるえて動けないようだった。雨にうたれながら、母はお守りを貰ったり、祈祷をさせたりした。母ばかりでなく、何十人もの男女がそのあたりを右往左往しているのであった。なかには裸足で髪の上から油紙をかぶりお百度をふんでいる若い女もあった。杉の大木の梢すれすれに寄進された幾本もの祝出征の幟旗が立ち並んでいた。武運長久を願ってのことだが、五月雨に濡れそぼり、染色を流したそれらののぼり旗は暗い木下蔭で、幽霊じみて見えた。
「直次の出征のときの旗をもって来ようかと思ったが、却ってもって来なんでよかった、のう、あんた」
 ひろ子の耳へ顔を近づけて母がそうささやいた。その母の一心に上気に上気した顔にかかるおくれ毛や眉毛に、雨のしずくが光った。
 荷物をつめかえているひろ子は、家族的な追憶にみたされた。それは厳粛で、きびしい戦争をとおして営まれる日本の庶民のつましい生活の網目にみちているのであった。
 網走へ、と思ってこの行李をつめるとき、ひろ子の胸には一筋のうたの思いがあった。選んで入れる一つ一つの布《きれ》について、そのうたはひろ子の胸に鳴った。そのうたの思いは、このような形で現実の内容をもって来た。
 労苦に備える勇気のこもった気持で、翌日ひろ子は街道をあちこち歩いて、移動の手続きをしたり、旅行外食券に代えたりした。

        四

 運よく、その列車の中でひろ子は座席がとれた。
 その代り、坐ったと思ったらもう動けなくて、送って来た小枝に声さえかけられなかった。
 駅を出るとじき、通路にまで立っている旅客をかきわけて、
「検札をいたします」
 中年の大柄な車掌が、巻ゲートルで入って来た。
「これは二等車ですから、乗車駅から三倍の賃銀を払って頂きます」
 そういう声につれて、後部で押し問答がはじまった。押し問答の尾をひいたまま、ひろ子のところへ来た。切符を出して見せた。鉛筆で切符のうらにしるしをつけて、先へ行くかと思ったら骨っぽい指をのばして、
「それは御使用ずみか?」
と、ひろ子が手にもっていた裂地《きれじ》づくりの紙入れをさした。その意味がすぐのみこめなくて、ひろ子は、見せた切符を挾んでおいた黄色い内側を開けたまま、
「どれかしら」
「これは御使用ずみですか」
 同じ切符入に挾んであった山の手線のまだ使ってない切符をぬきとった。そして、ぼんやりしたひろ子が、一言も云わないうちに、
「頂いておきます」そして、次の番へ移った。
 その頃、地方新聞は不正乗車の激増を大きく扱っていた。ひろ子の乗った駅から小一時間先の大きな駅では、毎日二百人以上の不正乗客があって、それは益々増加しつつあると書かれていた。この列車は、その都会が始発である。車掌は気を立てている。いかにも過労らしい、肉のつくゆとりのない肩のあたりで制服は色あせている。この車掌が、山の手線の切符に対してまで責任を負う必要があるのかないのか分らなかったが、ひろ子はむしろ車掌の癇癪に同情した。鉄道従業員たちは、機銃の恐怖の中であれだけの努力をしとおした。復員、進駐と、その後寸暇も与えられていないのであった。
 ひろ子の斜隣りで、二十歳をすこし出たばかりの海軍士官の外套を着た神経質な顔つきの男が、まだ少年の丸い顔をした部下らしい青年をつれて大荷物をもちこんでいた。それが
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