どれほど感動したものか、泣きながら、
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「貴方――芝居は青の別れに限りやすぞい、別れたくないって、多助の頬に、自分の頬をすりつけてない。
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と云った。十二時頃、小一里も歩いたので風邪を引いたと云って、赤坊の様にケン、ケンと云う「セキ」をして居た。鴨の肉のただ煮たのを小さな皿に持って行った。
「粥でも作るつもりだかし」と祖母は笑って居た。
 湯のたて廻しと云う事が行われて居る。今日は誰の家で湯をたてると、あすは、誰の家でたてると順をきめて、湯をたてる番の人の家へもらいに行くのである。家で湯をたてると彼の小学校長の家族を始め、あすこの婆さん、此処の女房と、湯をもらいに来る。自分の番になるのを待って居るものや、もう上ったものは炉の廻りに集って、茶をのみのみ世間話をして居る。血統も分らない――又どんな病気を持ってこうして居るかもしれない人達を、自家の湯へ入れると云う事は随分と危険な事だ。外で行水《ぎょうずい》をつかえなくなってからだけでもたててる。小銭湯の様な特別の湯槽をだれかの家へあずけて、湯のないものは、その家の家族のとは違った湯槽に入る様にしたらいいだろうのにと祖母にも云ったけれ共、湯のたて廻しなどが平常気の置けない交際機関になって居るので、今急にそれをやめれば皆が不自由するし、又、悪く思われるからと云って居た。祖母と私は一番先へ入る事にきめて居るのである。
 そんな事をしない東京から来て見ると何だか不安心だ。銭湯を知らない私は、温泉でさえ気味が悪い様でいやがって居るのだもの、新らしくなりもしず、汚れた水を吸い込む木の槽の肌にはどんな汚れが誰から出て入って居るだろうと思うといくら新らしい湯に最初入ってもいやである。とうとう私の居る間は立て廻しから抜けてもらう事にしたけれ共、小学校の先生の家の人や、あの「おともさん」は立つ毎に来て入って行った。これ共はこばむ事の出来にくい人達だった。その晩は校長が手拭をドテラの上から帯の様にして湯に入りに来た。
 十五分もかからないで上ると私共の炬燵に入って、会津の方の女の話をした。非常な働き者で、東京の娘達の様に箸より重いものは持てない様には必[#「必」に「(ママ)」の注記]してして居ないと殊更、私にあてつけでもする様な口調で云った。先生と云う臭味がこんな時プーンとする。私はだまってきいて居る。祖母はおつとめにじいっとしてきいて居るらしく時々妙な質問を出して先生をどぎまぎさせて居た。私がだまって居るので、いろいろの事に話が渡って、しまいには、女に女学校以上の学問を養わせる事や、専門的な智能を養わせる必要はない。学問などをするから男を馬鹿にしてかかるなどと云って居た。時々、私をかあっとさせる様な事を云う。まるで私とすっかり違う頭の人に自分の考えを発表した処で無意味だし、又それほど抜けても居なかったから、時々いやあな顔をしながらも一言も返さずにだまって只きいて居た。一段話すと、祖母は梅の汁《つゆ》が自然に発酵した酒を進めた。私も一口なめて見たけれ共、舌の先がやけそうにヒリッとした。随分つよいらしかった。
 校長は小さい猪口に三四杯飲んですっかり機嫌になり、自分等が若かった時、寄宿舎で夜中に食物をとりに行って小使だと思って舎監にソーット醤油を呉れと云って、それなり懐に一杯薯を抱いてつかまった事を、顔中の和毛をそよがせながら話した。そして炬燵布団に、髯もじゃの顔を押しつけて居眠りを始めた。祖母は笑いながらゆり起した時、見事な髯に白く「よだれ」のしずくがたった一つつつましげに輝いて居た。その「よだれ」のしずくはすっかり私の気持をやわらげて仕舞った。
 翌日とその翌日とかかってすっかり雪解はすんで仕舞った。正月も迫って来た。けれ共、新、旧と二つの暦をつかって居る此村では新と旧と二度正月があるので、両方ともが割合にざっとすまされるのである。別にこれぞと云うほどの事も、この村ではして居ないとは云うものの、荷馬の背に新らしい下駄や一寸した家具がつんであるのも、やっぱり、あらそわれない暮らしい気持がただよって居る。ほんとうに、暮の気持がただよって居ると云う位のもので、あの一番せわしない、掛取りや、来年の準備に必要なものを景気をつけて売って居る商人やの姿が見えないから、いかにもしずかに自然に年の暮が立って行く。十二月の末、それはこの上なく日の短かい寒い時分なので、正月の買物に町へ出掛けるものさえ少ないのである。
 東京の友達からはクリスマスの事等を云ってよこした。ほんとにもうクリスマスも「あさって」になった事だと思うと、今更、正月が近い内になったのに驚く。東京に居ればこそ、小さい兄弟に、贈物をしたり、外《ほか》からもらったりしてクリスマスを忘れる事はないけれ共、此んな処に
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