たのを知らなかった」
その道具は然しもう借りず、彼等は砂に腰を下し、次第に暮れかかる海を眺めた。
空の中頃に二かたまり、大きく雲が現れた。その雲に西日が遮られ、屈曲した強い光線が海面に落ちた。先刻から吹き始めた風を孕《はら》んで、沖にいた帆船が或る距離を保ちながら帰って来た。丁度その塊雲の下と思われる地点へさしかかると、急に船は暗い紅色の帆をあげて走って来るように見えた。それは真先ので、次の船の帆は、オリーヴ色に変色した。最後に来る一つは濡れて光る鼠色の布地を帆に張りあげているようだ。
他に船はない。
その三艘だけが、雲のために黝《くろず》み始めた海上を、暗紅色の帆、オリーヴ色の帆、濡れた鼠の帆と連なって、進行して行く。
それ等が始め色が変ったと同じ順序で元のような普通の帆の色になったのは余程行ってからであった。
尾世川と藍子とは、最後の鼠色の船が、先ず船首の端から明るみ、帆の裾、中頃ぐらい、段々遂に張った帆の端が真白になってしまう迄、瞳を凝《こら》し見守った。
「……変だなあ……」
藍子が、眼をしぼしぼさせながら、若々しい驚きを面に現して云った。
「……何だか目が当にならないみたいでしょう? ああやって行くところを見れば、ただの漁師船に違いないけれど」
「ふむ。私も始めてです――幽霊船の話も嘘だとばかりは云えませんね。あれも紅い帆ですな」
その云い方がおかしいと云う風に藍子がくすりと笑った。
松林をぬけて、彼等は清遊館の方へ歩き出した。
底本:「宮本百合子全集 第三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第三巻」河出書房
1952(昭和27)年2月発行
初出:「文芸春秋」
1927(昭和2)年10月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年9月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全7ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング