みや名家選集をもって、藍子は二年の間尾世川に教えて貰ったと云うより寧ろ教えさせて来たのであった。
三月の第一火曜日の午後、藍子は小日向町へ出かけて行った。尾世川が牛込の方から此方へ越して来てから、藍子も、同じ小石川の向う側の高台へ部屋を見つけたのであった。鼠坂を登って、右へ曲る。煙草屋の二階に尾世川は暮していた。
「今日は」
「おや、こんにちは」
丸髷に結った神さんが、狭い店先の奥から顔をもたげた。笑った彼女の口元からちらりと金歯の光ったのや、硝子《ガラス》ケースの中にパイプや葉巻の箱を輝やかせている日光が、いかにも春めいた感じを藍子に与えた。
「おいでですか?」
「ええ、今日はいらっしゃいますよ、さあどうぞ」
店の横にある二畳から真直|階子《はしご》を登ろうとすると、神さんは、
「ちょいと、三島さん」
変に潜めた声で藍子を呼び止めた。
「なんです」
黙って眼と手でおいでおいでをしながら自分も立って来た。
「お客さまなんですよ」
藍子は、何事かと思った顔をゆるめ、駄々っ子らしく、
「なあーんだ」
と云い、本包みとショールをそこへ置いた。
「何かと思っちゃった」
神さんは、男の児みたいな藍子の様子にふっと笑いながら座布団を出して来た。
「誰です? そのお客さん」
「それがね、千束から来た方なんですよ、女の人は来ていないかって――どうも銘酒屋さんか何かの主人らしゅうござんすよ」
「へえ」
藍子の、意外そうな表情を見て、神さんは、
「あなた何にも御存じなかったんですか」
と云った。
「知りませんよ。――いつ頃から来てるんです」
「さあ」
神さんは、首を捩《ねじ》って、店の鴨居にかけてある古風なボンボン時計を見上げた。
「もう小一時間たちますね、かれこれ」
二人は、暫く黙って、聴くともなく二階の話声に耳を傾けた。折々低い声で何か云う男の声がするばかりで、穏かなものであった。
「いい塩梅に面倒なこともなくて済みそうだからいいけれど、厭な気持がしますですよ。いきなり、大塚いねと云う女がいる筈ですがって、私の顔をじろじろ見るんですもの――」
「――逃げたんでしょうか」
「さあ……」
神さんは、語尾を引っぱったまま再び注意を自分の頭の上に向けた。
すると、二階の襖《ふすま》が開き、
「じゃ、そんな訳ですから何分よろしゅう」
と云う、錆びた中年の男の大きな声
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