免なさいね、今お火をもって来ますから」
 八畳の座敷で、障子の硝子越しに、南天のある小庭と、先にずっと雪に覆われた下谷辺の屋根屋根の眺望があった。
 藍子は、女が若しか廃業でもしたい気かも知れないと思って来たのであったが、その推察ははずれていたのを知った。
「あんたの気持をよく聞いて帰れば、尾世川さんも種々しいいんだから」
 千束から人の来たことを話しても、女は身にしみては聴いていない風であった。打ちあけて何も話さず、てんから藍子が尾世川の何かでありでもするように、
「ねえ、あなた。後生だから一目尾世川さんに会わして下さいよ。あなたの御迷惑んなるようなこと、きっとしませんから、ね? 一目会わして下さい」
 躙《にじ》りよって来て藍子の膝に手をかけ、軽くゆすりながら女は片袖で涙を拭いた。
「なんにも私が会わせるの会わせないのって……そんな因縁ありゃしませんよ。ただ――あんただって訳のあることだろうし」
「ええ。その訳がね、どうしたってあの人に会わなけりゃ分らないんですよ。折角来て下すったのに何にも云わないでさぞ厭な女だとお思いでしょうけれど、どうぞ悪く思わないでね、どうかあなたのお力で尾世川さんが来るようにして下さいな」
「――私はお使者なんだから、それは云いますけどね」
「来てさえくれりゃあ、本当にわかるんですから……」
 女は帯の間から桜紙をとり出し、それを唇でとって洟《はな》をかんでから、銀杏返しの両鬢をぐっと掻き上げた頸筋にだけ白粉の残っている横顔を伏せ、巻莨《まきたばこ》をすい始めた。
 女の素振りには藍子に対する誠意が乏しく、只尾世川を来させろと繰返す執念だけが強い感じであった。それも彼の恋しさばかりとも思われず、藍子は、女が莨を一本すい終るのを待って立ち上った。
 女は、送り出して藍子のコートを着せかけながら、
「それにね、私んところにあのひとの大事な万年筆があずかってあるんですよ、そのこともどうぞ云っといて下さいね」
と、真面目に云った。
 藍子は、女のそういう下心が憎めないような、単純さに微笑まれるような気がした。その万年筆というのは、藍子が自分用に丸善で買ったが、ペン先が堅すぎるので尾世川にやった、それなのであった。

 出がけにちらちらだった雪が、帰途には熾《さかん》に降りしきった。空からドンドン降るのを見るとまるで灰みたいなものが、地面から或る
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