いという事実も、思い合わされる。
 あれやこれやの理由から、孝子夫人の資質を貫く熱い力は、よりひろくひろくと導かれ得ないで、日常身辺のことごとと対人関係の中で敏感にされ、絶えず刺戟され、些事にも渾心を傾けるということにもなったのではなかったろうか。
 二昔ほど以前の生活の環境であったらば、夫人の気質は、所謂江戸子の張りある気象と一致して放散されたものだったかもしれない。けれども大正の末、昭和へと生活は全く複雑になり、情熱のよりどころも見やすくはないものとなった。
 まことに女らしい天性によって、孝子夫人の情熱の主題は、日常生活の中での人と人との間の愛と信義、心意気と好みとの上にあつめられていたと思うのは誤りだろうか。孝子夫人は、何につけても本当に心のたっぷりさを愛していた方だと思う。自分も心のたけ、ひとも心のたけで尽し合う人間交渉を求められた。だが、遑しくなりまさる営みの間で、孝子夫人のその願いは一度二度ならず傷けられたことと思う。
 元来、品川の伯父さんと呼ばれた方が、事業上の熱意のほかにどんな趣味をもって居られたかは知らないが、孝子夫人の母上、現子夫人は、今日高齢にかかわらず、猶読書が唯一のたのしみとなっている方である。兄上の谷口辞三郎氏は、早い頃フランス文学を日本に紹介した方であるし、兄上の一人の河野桐谷氏は、日蓮の研究家、文筆の人として活動された。孝子夫人が文学について趣味の深いことは、血統のおくりものと云えるのかもしれない。
 その上に、孝子夫人の生れ合わせが、生活の間に消されてしまわない熱さで人生を求めていたとすれば、文学への好みも、内面にひとかたならぬ、きずなをもっていたわけである。
 孝子夫人は率直な方であった。それにもかかわらず、自分の詠まれた短歌、その他については、はにかみ深くて、決してひとに示したり、そういう話題を選ぶことをされなかった。
 古田中正彦氏は、文学への愛好が深く、やはり短歌に蘊蓄が浅くない上、著書も持って居られる。長女の峰子さんも、歌のことでは夫人のよい伴侶らしかった。
 私が短歌については知ることが少なかったことも、お話の出なかった一つの原因であろうと思う。
 やがて、孝子夫人にとって、多くの忍耐と勇気とを求める闘病の時期がはじまった。新宿の病院にいらっしゃる頃は、思いながらつい折を得なくて、お会いしたのは、田園調布へ移られてからであった。
 永年糖尿病をもって居られ、そこから生じた複雑な病症で、経過は困難であった。おうちの方々は実に母さん孝行で、峰子さんなどは、自分の家庭とお母さんの看病と、おどろくばかり献身された。長男の鉄夫さんが花嫁をもらわれ、勝彦さんが出征され、松の茂った丘や玉川へ向う眺望のよい病床も多端であった。
 その前ごろから、孝子夫人はラグーザ玉子の絵をいくつか集めて居られた。額のかかっている応接間まで歩いて来られ、ラグーザ玉子が、老年なのに心から絵に没頭していて質素な生活に安らいでいることや、孝子夫人の心持をよろこんで、会心の作をわけたことを快よさそうに語られた。
 ラグーザ玉子の画境は、純イタリー風で、やや古典的な確かな技法とともに、こまやかな味、平和な趣の作品が多く、それはこの老婦人画家の心の景物を示すとともに、孝子夫人の求めていられた和らぎにこたえたのであろう。
 二度目に上って、すこし時間があったとき、孝子夫人は執拗な咳こみに苦しんで居られた。その間に、わきにいる私が気味わるくないかと頻りに気をつかわれた。どうして気味などわるかろう。私は母と同じ種類の宿痾からそうやって苦痛と闘っていられる姿を全くひとごとならず感じた。
 それは、青葉の美しくなりはじめた季節で、病室からの広闊な谷間の眺めは極めて印象的であった。孝子夫人はそのとき、布団の上に坐って、燦とした緑色の外景に目をやりながら、もう数年の間病床についている妻として、御良人の生活に対する微妙な思いやりを語られた。病む妻としての苦痛や良人への同情、苦慮が溢れていて、相談のかたちで語られたそれらの言葉は私を感動させた。
 女であってみれば、孝子夫人の苦衷は十分思いやられた。御良人の語られない不如意の大さも、諒察された。けれども、私たち女が、或るひとの妻として生きることと、そして、或る人が、一人の女の生涯を妻としてわが生涯に織りあわせて生きる互の結ばれの深さは、はじめから便利、不便利を超えたことと思われる。妻の患いによっておこるさけがたい多くの不如意、それによって良人が時々挫がれそうに見えても、やはり猶もちこたえて正々堂々とその不如意に耐えようとしている心の態度こそ、妻から真直に応えられ尊敬されるべきものであり、夫婦の生活の礎と思われた。
 私なりの考えかたかもしれないが、そこを、卑俗に先走って、便宜的にすりぬけたとしたら、夫婦のよさはどこにあろう。生涯を倶にする者同士の信頼は、何を根として保たれよう。そう思えた。
 私はそのままを話し、夫人も同感のようであった。
 おそらく御良人も、何かの折にふれては、孝子夫人の痛々しいばかりなそこまでの心のうごきを、知って居られたにちがいないと思う。
 昭和十六年という年は、日本じゅうが大きい変動にめぐり会った年であった。私ひとりの身の上にも様々のことがあって、二十年ぶりで林町の家へ引越して来たり、その夏の苦しい気持は、もう引越すばかりになっている家の物干にせめては風知草の鉢でもと、買って来て夜風に眺めるほどであった。
 秋になって落ついたらばと思っているうち、はや冬となった。十二月になって八日にアメリカとの戦争が開始された。
 孝子夫人の訃報を、私はごみっぽい板じきの室に立ったままで語る妹から、伝え聞いたのであった。
 この十年の間に、私はまず母を、次いで父を喪った。いずれも只一夜の看病さえ出来ない状況の下で。そのことは一応悲しい訣れのかたちであるけれども、思い沈めて考えると、私にとっては却って我々親子の縁というものがどんなに深いかを知らせることになった。二親たちの生涯の延長として、その延長されたいのちが遭遇する歴史の姿として、私がこれらの愛するものの傍で、よしや薬をのませることさえ出来なかったとしても、私たち親と子は正真正銘親と子で、どんな力も其をさえぎることの出来ない、いとしい世代の流れをうけついだものと思われるのである。
 孝子夫人の訃報をしらされた時、私は、思わず「ああ」と声に出した。「到頭!」
 又もや、ここで、私は最も親愛なひとの一人を喪った。強くそう感じた。そして、自分のなかに、孝子夫人の俤と、様々な女性としての悲喜にみたされた生活とが、まざまざと甦った。その俤には、稚いこころに印された、ふくよかに美しい二枚重ねの襟元と、小さい羽虫を誘いよせていた日向の白藤の、ゆたかに長い花房とが馥郁として添うているのである。
 孝子夫人と母と、この二人の女いとこは、溌溂とした明治の空気のなかから生れ出て、それぞれに精一杯の生きようをした女性であった。そのことのまじりけなさの故にこそ、私たちが血縁をもって結ばれているという事実も人間史の鏡に映って云うに云えない味いに満ち、愛着の新鮮な泉をも絶やすことがないのであると思われる。
[#地付き]〔一九四四年十二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「孝子の俤」
   1944(昭和19)年12月発行
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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