迫る時、雄鳩は急な淋しさを覚えた。彼は畑や、硝子《ガラス》をキラキラ夕栄えさせる温室の陰やらを気ぜわしく鳴きながら歩き廻った。
「ゴロッホーゴロッホー」
 彼は雌を熱心にさがし求めた。水蓮が枯れて泥ばかりの水鉢の奥から、霜よけの藁《わら》まで嘴で突いた。彼は深い孤独の悲しみと恋しさに燃えながら猶あらゆる鳴きようで妻を呼んだ。次第に夕闇が濃くなると、彼は鳴きつつ小屋に一人入った。さがし疲れて、雄鳩は幾百の夜の思い出の中に眠った。が、眠りづらく、彼は屡々《しばしば》目がさめた。夢中で優しく体をすりよせたが、そこに雌はいず小屋の荒い羽目があった。

 雄鳩は愕《おどろ》いて鳴いた。雄鳩の淋しげなのを見て、人が鏡を小屋の横にたてかけた。午後で、彼は麦の入っている戸棚の開く音をききつけた。土間に撒かれた麦を啄《ついば》んで行くうちに、雄鳩は愕然として覚えず烈しく翼で地面を搏《たた》きながら低く数尺翔んだ。今いたのは何物であろう。啄むうちに、また雄鳩は怪しいものが目を掠め去ったのを感じた。恐怖と好奇心が彼の内に生じた。雄鳩は麦粒を拾うことを忘れた。用心深く遠くから彼はそこを幾度も通りすぎて見た。雄鳩は思いがけない歓びで、
「クックウ、クックウ」
と喉を鳴らした。そこには妻が自分を見ていたのであった。
「クックウー、ゴロッホー、ゴロッホー」
 溢れ噎《むせ》ぶ思いで、雄鳩は雌に挨拶した。雌は彼のする通り、熱した目で凝《じ》っと彼を見た。美しく頸をふくらませて喉を鳴らした。嘴と嘴とがさわるのに、愛らしい妻は何故来ないのだろう。此方へ何故来ないのであろう。疑問で雄鳩の心は狂いそうになった。彼は小屋の中へ急いで駈け込んだ。天井に頭を打ちつけながら額の裏を探した。雌はいなかった。しかも、土間のその小屋の中へ舞い降りると、そこには紛れないもう一つの鳩がいるのであった。雄鳩は恐れを忘れ切なく嘴でもう一つの鳩の嘴をつきながら鳴いた。

 人は鏡を仕舞ったが、雄鳩は計らず見たもう一つの鳩を忘れなかった。彼はそれを自分の妻だと深く信じたのであった。雄鳩は今日も明日も根気よく家の中を翔び廻って再び見失った雌を探した。多くの黎明と夕暮が過ぎた。初冬が来た。昼間と夜とがいきなり続くほど暮れ方が短くなった。
 そういう一つの遽《あわただ》しい夕方、雄鳩は独り家に入った。人気なく、部屋への障子が開け放されて
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング