と見え、巌と泥とごたまぜに崩れ落ちている丘陵も違う。もっと奥の温泉への登り口がどこかその辺の篠原の間についていた筈だが、見当もつかない。――いくら見ても見当のつかないのが悲しく歓ばしく、なほ子は、度々その方を見ては鋭い感情を味わった。暗い一生の思い出と結びついたものと思っていた自然が、こうも新しいものとなって眼前にある!
飛ぶものは雲ばかりなり石の上 芭 蕉
石の碑が見えるところまで来ると、詮吉は真白い手巾《ハンカチ》を出して鼻を覆うた。
「ここより、却って来るまでの方が臭かったわ」
「そう?……いや臭い臭い」
詮吉は一旦はなした手巾をまた鼻におしつけた。
暫く、黒いごろりとした石を眺め、彼等は左手の丘陵へ登る路を帰途についた。或るところで一坪ほどの地面が大きな一本の躑躅ごと坂道へ雪崩《なだ》れ込んでいた。根こぎにされたまま、七八尺あるその野生の躑躅は活々樺色の花をつけていた。
真先に詮吉が東京へ帰った。なほ子もやがて立つことになったが、単調な山の中に半月もいて、同じような郊外の家へ帰るのは如何にも詰らなかった。真直に夜の東京の中心に戻り、燈火と人間と、明るく暗く錯綜に揉まれたかった。弟でも誘い出しどこかで夕飯をたべるつもりで、なほ子は上野へ着くと両親の家へ電話をかけた。
「お離れにいらっしゃいますから一寸お待ち下さい」
「もしもし、ここ自動電話だから早くしてね」
それでも、待つ時間が気になる頃、耕一が出て来た。
「ああ、暫く。――今日帰ったの?」
「今上野なの――貴方出て来る気ない?」
暫く考えていたが、耕一は、
「僕今夜は家にいた方がいいな」
と云った。
「友達が二三人手伝いに来て呉れることんなってるから――え? 製図――それに阿母さん工合わるがってるから、家へいらっしゃいよ」
なほ子は、灯のつき始めた山下辺、池の端の景色などを曇ったタクシーの窓から、それでも都会らしく感じて眺めた。
植木屋が入ったと見え、駒込の家の玄関傍に、始めて見る下草の植込みが拵えてあった。薄すり紫がかった桃色の細かい花が、繊《ほそ》い葉の間に咲いている。それを見ながら、なほ子は呼鈴も押さず、暗い板の間へ通って行った。茶の間の戸を開けようとしていると、
「アラ」
千世子が、おかっぱと制服の裾を膨《ふく》らませ、二階から駈け降りて来た。
「お母様、工合がおわ
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