冬の海
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)水泡《みなわ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#小書き片仮名ガ、414−12]
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あんまりはっきり晴れ渡らない空合で、風も静かに気にかからぬまでに吹いて居る。
丁度満潮時で、海面は白と藍のむら濃になってゆるやかに息をついて居る。
かなり久しい間、海に来ないで居たので、波の音が、脳の中の、きたないものを皆持って行って呉れるかと思われる様に、新らしく感じられる。
小田原の海ほど高い波がよせないので、つれて景色ものどやかで、見て居ても快い。
波面と、砂がまぼしくひかる上から、短かい、細かな「かげろう」がチラチラもえて居る。
向うの青々した山の裾まで、かるく、ゆれて、ホンノリとして見えるので、まるで初春の雲雀でも鳴いて居る時の様に思われる。
まだ三※[#小書き片仮名ガ、414−12]日がすまないので、漁船は皆浜に上って居て、胴の間に船じるしの「のぼり」と松が立ててあるその下で、「あさぎ地」に赤で、裾模様のある、あの漁師特有の「どてら」の様なブワッとしたものを着た、色のまっ黒な男が、「あみ」をつくろったり、立ち話しをしたりして居る。
いかにもお正月らしい。
正月の海辺は今年始めて見たのだけれ共、東京の町中等より眼先のかわった、単純な面白味がある。
漁師共の着て居るその「どてら」みたいなものと、船じるし、松飾りをした船とが、しっくりとつり合って、絵にでも書いて置きたい様に見える。
春先の様に水蒸気が多くないので、まるで水銀でもながす様に、テラテラした海面の輝きが自然に私の眼を細くさせる。
この海からの反射光線が、いつでも私の頭――眼玉の奥をいたくさせるのである。
此処いら――江の島、七里ヶ浜あたりの波は随分と低い。
それに、すぐ目の前に江の島の、あの安っぽい棧橋側が見えて、うすきたない石がけにごみがよせて見えるので、何となし俗っぽい。
あの江の島の貝細工店の女達の様に、いやみなところがどこかある。
けれ共、松のある出島の裾まで、白い波頭がゆるやかに見渡せて、ザザザザ――と云う響が、遠くから、次第に近く、よせて来て低い砂を□[#「□」に「(一字不明)」の注記]う波が、白い水泡《みなわ》をのこしては引いて行く様子は必[#「必」に「(ママ)」の注記]して悪いはずもない。
江の島があるばっかりに、ここいらの品がすっかり落ちて仕舞った、惜しい事だ。
そうかと云って又、江の島があればこそ、私達の様なものまで、わざわざ時間をかけて来るのでもある。
江の島の弁天様が、おいであそばさなかったら、ここへ、よし来は来ても、御飯をたべる処もない事を思えば、まんざらそう、けなしもならないわけである。
潮加減か、波のすぐ下に、背の青い小魚がむれて、のんきそうに、ゆーらり、ゆーらりとゆれて居る。
棧橋の上に、それをねらった二三の漁師が、「あみ」を手にもって、ニヤツキながらそれを上から見下して居る。早く、どっかへ行けばいいにと思って私はその漁師とならんで、その青い小魚の群に気をとられるのである。一体冬の海は、春の海、夏の海にくらべて、厳かな感じをあたえるものである。
冬は、小田原の海が見物だと思う。
もう、ゆだんのならない大波が立って、汀から、八九尺の上まで飛びあがってから、投げつけられた様に、砂の上にくずれ落ちる。
したがってその音も、とうてい、ここいらの五倍六倍ではきかない。
先ず、沖の方から、黒い方な波のうねりが段々こっちにせまって来ると思う間もなく、グーンと空高くはねあがる。
それと同時に、私の身丈の倍でもきかない様な、濃い、黒藍の、すき透る様な、すごく光る屏風が、上《う》えの方に白い線をのせて目の前に立つと、その上の方が、段々と下を向いて来て、終に、砂の上にひどい音と共にめちゃめちゃに砕ける。
その凄い屏風が段々くずれかかって来る時の気持と云ったら、何と云おうか、その恐ろしさと云ったらしらずしらずの間に手を握りつめて居るほどである。
海の面は、此処の様に、晴《あか》るい色ではなく、まるで黒い様な色をいつでもして居る。
目をさえぎるものとしては何にもない。
大島や伊豆に通う蒸気船の、ボボー、ボボッボーと云うめ入《い》る様な汽笛がその黒い波面を渡って来る。
酒匂《さかわ》河の蛇籠《じゃかご》に入れる石をひろいに来て居る老人だの小供だのの影が、ポツリポツリと見える。
病人でもなくて、遊びに来るものはめったにない。
それだけ静かである。
自然で、俗気のみじんもない、どうとも云われずどっしりと人にせまっ
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