小説は、どんな俗人も感服するこの風※[#「耒−人」、第3水準1−14−6]だけでは書けなかった。ましてや、アンデルセンという北欧の文学者を、その本人の精神よりもロマンティックに日本に紹介した「即興詩人」の訳は出来なかったであろう。文学のえらさはいつもどこか世間並のえらさのけたをはずしている。ゲーテは十八世紀末から十九世紀の初頭にかけてアポロと云われたそうだけれども、ベートーヴェンの伝記をみていたら、同時代人としていろんな芸術家の写真がのこっていた。シューベルトとゲーテとの写真がそばにあって、自然見くらべられた。シューベルトの表情の正直さ、かけひきのない顔つきは彼の音楽を思いおこさせ、見くらべるゲーテの相貌の見事さにかかっている俗な艷出しにおどろいた。偉大な俗物というゲーテへの判断をうなずいた。
おかぼの穂がみのり、背高いキビが野趣にみちて色づき初冬に近づいたこの頃、大理石の鴎外はべつのかぶりものをもった。それはアンペラである。丁寧に、繩の結びめも柔かくアンペラで頭部をかくまわれた。雪と霜とで傷められるのに忍びないのであろう。
キビの葉は乾いた音をたてて、この辺の焼けあと、あちこちに立っている。白山の停留場に立っていると、昔から鶏声ケ窪と云われた窪地が今はじめて私たちの目の前に展開されている。窪地に廃墟が立ち、しかし樹木はこの初夏格別に美しい新緑をつけた。高低のあるこの辺の地勢は風景画への興味を動かすのである。ほんとうに、ことしの新緑の美しかったこと。地べたの中にアルカリが多くなっていたせいか、新緑は、いつもの年よりも遙かに透明ですがすがしく、エメラルド・グリーンに輝いたフランスの絵の樹木の色を思い出させた。焦土に萌える新しい緑へのよろこびからばかり、その美しさが見えたのではなかった。
[#地付き]〔一九四七年七月〕
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「婦人」創刊号
1947(昭和22)年7月発行
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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