馬さんは現場へ行ぐ、すぐ消防の手配しろ」
 冬にはつきものの北風がその夜も相当に吹いていた。なるほど、勇吉の家が、表側ぱっと異様に明るく、煙もにおう。気負って駆けつけ、
「水だ、水だ、皆手を貸せ」
と叫んだ勘助は、おやと尋常でないその場の光景に気をのまれた。勇吉の家では、今障子に火がついたところだ。ひどい勢いで紙とさん[#「さん」に傍点]が燃え上る明りの前で、勇吉夫婦が足元も定らず入りみだれて影を黒くわめき散らしている。勘助は、あわてて荷を出そうとどよめいているのだと思った。がよく見ると、何事だろう! 勇吉夫婦は酔っ払った上互に狂人のように悪態をつき合ながら、炉の粗朶火をふり廻して、亭主がここへ火をつけると、女房もそっちに火をつける。火をつけながら、泣きながら、おしまは、
「こげえな家が何でえ! 畜生! 夜もねねえでかせいだんなあ何のためだ、ひとう馬鹿《こけ》にしてけつかる」
 オイオイと号泣して、彼女はよろける。
「糞じじいに鼻たらし嫁なぐさませるためじゃあねえぞ!」
 すると、勇吉は、粗朶火を持たない左の手で、怒り猛る仁王のようにおしまにつかみかかりながら罵りかえした。
「へちゃばばあ! ええ気になりくさって、おれを何だと思う! 亭主だぞ! 憚んながらこの家の主人だ! 何、何、何をしようとおれの勝手だ。おれの働きで建てた家で、したいことしていけねえんなら、糞! 燃しちまう! ああ燃しちまうとも! 糞!」
 おしまは、
「お前一人ででかしたようにほざくねえ! おめえが燃すというんならおれだって半こ半こだ! ほらよ、燃してくれべえ」
 勇吉の家は、畑中で近所が少し離れている。それだからいいようなものの、火の手は次第に募る。放ってはおけない。――勘助は井戸水をくみ上げながら、いやはやと思った。これは、大火事より都合がわるい。見物は、だらしなく、ワアハハハと笑うきりで手助けはしないし、火より先にけんかをやめさせる必要がある。勇吉夫婦は、ところが、名うての豪の者ではないか!
 勘助は、馬さんと大手おけ[#「おけ」に傍点]に水をくんでゆくと、いきなり、ざぶりと、燃える障子にぶちまけた。火はあらまし消え、くすぶり、その辺はみじめな有様だ。
「さあ、もうよさっせ、ええ物笑いだ」
 勘助は、そういったきりだ。炉辺に坐りこみ、わが家にいるように、乱胸[#「胸」に「ママ」の注記]を片づけ出した。勇吉は、立ちはだかって、勘助を見ていたがやがて、
「何でえ、何しくさるでえ」
とつめよせて来た。
「畜生! うせあがれ! われの家われと焼くが何でえけねえ、どかねえと打《ぶ》っ殺すぞ」
 馬さんその他上って来て、種々仲裁したが、勇吉はなかなかきかない。
「おらあ、火いつけりゃあ牢にへえる位知ってるだ! ああ知ってするごんだよ、だから放っといてくんろ、畜生! 面白くもねえ、ええい!」
 強力だから、あばれると一寸相手がない。人々を振りほどいてまた、粗朶火をふり廻す。勘助は、黙って考えていたが、はっきり勇吉の耳元で叫んだ。
「なる程、おらわるかった。折角おめえこの家焼きてえちゅうに止めだてしてわるかった。おらもじゃあ手伝ってくれべえよ」
 勘助も粗朶火を手に持った。そして、消防の方に何だか合図し、穏かに、楽しそうな風体で、
「おらも助《す》けてやるぞ、なあ勇吉どん」
と、ふすま[#「ふすま」に傍点]をはずして持ち出し、土間のワラをかき集めては火をつけた。――このような見ものを村人は、村始まって見たことはなかった。何という面白そうな火つけ人! 勘助が、
「さて、次は何を焼くべえ、畳か」
といってあたりを見廻した時、いつの間にやら鎮まって、あっけにとられ、彼の所業《しわざ》を見守っていた勇吉が、いかにも面目なげにしおれ、小さい声で勘助にささやいた。
「もうええ」
 勘助は、勇吉を眺め、やはり楽しそうにさらりといった。
「そうけ、じゃあやめべえ、おやすみなんしょ」
 翌日、勇吉は、麦粉をもって勘助のところへ行った。
「はあ、何ともはあ……どうぞお前から皆によろしくいってくんさんしょ、いずれ何とかする気では居んが」
「そりゃ構うめえが……何だね……おれあたまげたぞ全く、どうなるかと思ったて。何だね? 一体ことの起りあ」
 勇吉は、赤銅色の顔を一寸伏せ、人よく、
「へへ」
と照れ笑いをした。
「詰んねえことさ、その……何さ、きい奴まだ若けえのに――その亭主兵隊さとられちまってはあ――その……さびしかっぺえと思ったんで、おらあ……何、ちょっくら親切してやったのうばばあめ……騒いでけつかる」

 去年の六月、私は祖母とその村にいた。
 毎日夕焼空が非常に美しかった。東京の市中では想像もつかない広い空、耕地、遠くの山脈。竹やぶの細い葉を一枚一枚キラキラ強い金色にひらめかせな
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング