かし、私は弱音を吐くことは許されない。
「ここへ来るとたれかにいったの?」
「いいえ、こっそり畑から来ました」
「――何にもありはしまいが、じゃあこちらで泊っていらっしゃい」
十六の女中は、背後《うしろ》を見い見い、
「おらあ……雨戸しめべえかしら」
とにじり出た。
「ほんにやんだこと……出刃なんか磨ぐた何だんべえ」
祖母が、下を向き、変に喉にからんだようなせき払いをしながら強く煙管を炉ぶち[#「ぶち」に傍点]でたたく音が、さびしい夜陰に響いた。
十二時過て、私はいつも通り一人奥に寝た。祖母と八十二のおばあさんは廊下越しに離れた仏間に、逃げて来た母子は女中と茶の間に。家には平穏な寝息、戸外には夜露にぬれた耕地、光の霧のような月光、蛙の声がある。――眠りつかないうちに、「かすかに風が出て来たらしいな」私は、雨戸に何か触るカサカサという音を聞いた。「そう風だ、風以外の何であろうはずはないではないか、そして、あの雨どいの下にシュロが生えている、シュロの葉は大きく強く広がっていたのを私は昼間見たではないか」
私は……確《しっか》り眼と耳をつぶって寝返りを打った。
「しかし」
いつか、また自問自答が始まった。
「――もち論あれがシュロの葉の立てる音だということはわかってはいるが……しかし、万一、そう万万万ガ[#「ガ」は小書き]一、その吉さという男が、血迷って女房を殺し、おれを馬鹿だといって笑ったかかあ[#「かかあ」に傍点]はどこにいると暴れ込んで来たら、自分はどうそれを扱ったものであろう」
私は女だ。吉さが刃物をもって来ては一応かないそうもない。が、あそこにいる、命ばかりはお助けとはまたいえそうもない。ああ、昔の女侠客はそういう場合どうしたか、私も講談で知ってはいる。勇ましく体をつき出し、こうたんか[#「たんか」に傍点]を切るのだ。
「お前さんも恨があるというからには、頼んだところで、おいそれと聞いてはくれまい。けれども、私も一旦おうと引受て、かくまったからには、御存分にと出すことあ出来ない。たってというなら、先ずこの私を切るなりつくなりしてからにしておくんなさい」
ふむ。――侠客の女房で、逆を行ったのもあった。あくまでいないとしらを切り抜くのだ。――「古い! 古い!」私は、自分の考えかたを換た。私は、出来るだけ落つき、こういおう。
「なるほど、あのひとは宿っている。けれども、私はあなたがどんな恨を持っているかは知らなかった。――恨があるなら晴らすのもよかろうが、刃物三まい[#「まい」に傍点]は馬鹿なことだ。今は法律があって、何方が悪いかは役所で調べてくれる。一人人を殺せば……」
お前も死ななければならないからと、頭の中でいいつづけようとし、私ははたと当惑した。吉さは既に女房を殺してい、「どうせその一人はやっちまったごんだ、こうなりゃ、うぬ!」と気張ったら、さてどうしよう。
考えては、寝返りし、寝返りしては考えているうちに、私は体じゅう熱が出たように熱く成った。
こんなことでどうなるものか、成るようにしか成らない。第一、吉さが家にちん[#「ちん」に傍点]入すれば真先に自分の処へ来るものと思うことから滑けい[#「けい」に傍点]ではないか。台所から来るか、二階から来るか、勇敢にばりりと雨戸を引破るか、知れたものではない。来るか来ないか分らないものを十中九分の九まで来ないとさえ知れながら――私は馬鹿女だ!
しかし、村でも到頭人殺しが出るようになったか。(私の頭は何という依估地頭だ!)こそこそ泥棒も滅多にはなかったのに――。村の中で、この夜、村始まって初めての殺人があるかも知れないという状態はせいそう[#「せいそう」に傍点]だ。私の想像はいやに活々して来た。まるで天眼通を授かったように、血なまぐさい光景の細目まで、歴然と目の前にえがかれて来た。これでは、実際あると同じこわさだ。神よ、私に眠りを授け給え!
一晩じゅう、どんなに私が体を火照らせ、神経を鋭敏に働かせ通したか、あけ方の雀が昨日と同じく何事もなかった朝にさえずり出したその一声を、どんな歓喜をもって耳にしたか、私のひとみ[#「ひとみ」に傍点]ほど近しい者だって同感することは出来まい。七時から、十二時まで、私は石ころのようになって眠った。
夕方になって、おみささんが礼に来た。
「何事もなくてまあよかったわね、どうしていて? その吉さというのは……」
おみささんは、変に極りのわるいような、口惜しそうな、ぷりぷりした調子で素気なく答えた。
「ほんに、何ちゅう人たちだら……今朝ねあなた、お宅からかえって、そうっとまた裏の窓からのぞいて見たら……寝てるじゃあござせんか」
「へえ……それでそのおきみっ子は? 逃げているの、やっぱり」
「寝てますのよ! 一緒に寝てますのよあな
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