土間に立っているひろ子を見た。
「――オーイ、支部長いるかア」
 声だけ階段口に向って張り上げた。
「おウ」
「用のひとだ」
 踵に重みをかけド、ド、ドと響を立てて誰かが降りて来かけた。折から、ゆっくり登って行った三四人と窮屈そうに中段で身を躱《かわ》し、のこりの三四段をまたド、ド、ドと小肥りの、髪をポマードで分けた外套なしの詰襟が現われた。
「やア」
 如才ない物ごしで声をかけてひろ子に近づいた。ひろ子は、大谷にきいて来たと云った。
「やア、それはどうも御苦労さんです、上って下さい」
 ひろ子が靴をぬいでいる間、山岸はそのうしろに立って両手をズボンのポケットに突っこんだまま、
「大谷君、今日は見えんですか」
と云った。
「私ひとりなんですけれど……」
「いや、却って御婦人の方が効果的でいいです。ハッハッハ」
 階子口に行きかかると、山岸が何気なく、
「じゃア……」
 片手で顎を撫で、通路からはずれて立ち止った。
「どういう順序にしますかな」
 ひろ子は講演にでも出る前のような妙な気持がした。
「御都合で、私は別にどうって――」
「じゃ――一つ先へやって貰いますか」
 早口に云って山岸自身先に立ち二階へ登って行った。
 大小三間がぶっこぬかれていた。正面の長押《なげし》から墨黒々とビラが下っている。「百三十名馘首絶対反対!」「バス乗換券発行反対! 応援車掌要求」強制調停後のと並んで「百二十一万三千二百七十円、人件費削減絶対反対!」というのも下っている。
 すっかり開け放された左手の腰高窓から朝日がさし込んでいた。まだ暖みの少い早朝の澄んだ光線を背中にうけてその窓框に数人押し並び、その中の一人が靴下の中で頻《しき》りに拇指《おやゆび》を動かしながら何か説明している。ひろ子の坐ったところから其等の人々の姿は逆光線で、黒っぽく見えるうしろに、広く雲のない空が拡がり、隣のスレート屋根の上で、四つずつ二列に並んだ通風筒の頭が、同じ方向に、同じ速さで、クルクル、クルクル廻っているのが見える。
 隅っこに、どういう訳か二脚だけある椅子へこっち向に跨《またが》り、粗末な曲木《まげき》のよりかかりに両腕をもたせて一人は顎をのせ、一人は片膝でひどく貧乏ゆすりをしている。畳の上では立てた両方の膝を抱えこんだ上に突伏しているもの。あぐらをかいた両股の間へさし交しに手を入れ体をゆすぶっている者。――
 ひろ子は、あたりの雰囲気の裡《うち》に複雑なものを感じた。会合に馴れ切った、一通りのことでは驚きもせぬと云いたげなその室内の空気の底に、実は方向のきまっていない或る動揺、口に出して云い切るまでにはなっていない予期というようなものが流れているのが感じられる。それは、椅子に跨って貧乏ゆすりしている三十がらみの従業員の落付かなく人の出入りに注がれる眼くばりの中にも認めることが出来るのであった。
 やがて、正面の小机のところへ、喉に湿布を捲きつけた一人の背の高い従業員が来た。その男は立ったなり自分の腕時計を見、ネジをまき、さっきからその机へ頬杖をついてぼんやりあぐらをかいていた中年の従業員と何か話した。
「じゃあ、始めますからア」
 椅子に跨っていた一人の方は下りて畳へあぐらをくみ、一人はそのままいた。
「お、しめなよ、寒いや」
 窓際のが外套の襟を立てた。
「じゃあこれから第五組組会を開きます」
 じじむさく喉に湿布を捲いたのが組長であるらしく、司会をした。
「一昨二十六日午後、川野委員長対大石、佐藤との会見においては、百二十七名に対する不当なる馘首に対する我々の側からの強硬なる抗議に拘らず、あっさり蹴られた顛末《てんまつ》は、即刻掲示したとおりであります。今日は、その後の経過について報告し、我々第五組としての態度を決したいと思いますが、その前に、今ここへ、労救が人をよこしているから、その方からやって行きたいと思います」
 すると、ひろ子が坐っているすぐわきにあぐらをかいていた一見世帯持の四十がらみの従業員が、誇張した大声で、
「異議なし!」
と下を向いたまま首をふって叫んだ。
「――……じゃ、どうぞ」
 ひろ子はその場で居ずまいを直し、口を切ろうとしたら、
「こっちへ出て下さい」
 議長が自分のわきを示した。ひろ子がほんのり上気した顔でそっちへ立って行くと、更に、
「異議なアし!」
と後の方で頓狂に叫んだ者がある。笑声が起った。
 それにかかずらわないことで全体の空気をひきしめつつ、ひろ子は飾りけのない、はっきりした口調で、今度の争議が一般の労働者の神さんたちにまで、どのくらい関心をひき起しているかということを、鍾馗《しょうき》タビへ出ている秀子のおふくろの言葉などを実例にひいて話した。そして、今朝、既に広尾では家族会を応援して移動託児所をひらいていることを説明した。
「きのう、慶大裏で飛びこみ自殺をした大江さんはほんとにお気の毒だったと思います。新聞は日頃呑んだくれだったと書きましたけれど、広尾の人からじかにきいた話はちがいます。大江さんのお神さんが病身だものでどうしても欠勤が多く、それを首キリの口実にされたからああいうことになったんだそうです。私たちがもっと強くて、病院でも持っていたら、大江さんは病身のおかみさんのためにクビにはならずにすんだのにと思います。自殺しなくてもよかったと思うと、残念です」
「異議なし!」
「そうだ!」
 つよい拍手が起った。ひろ子は自分ではまるで気づかない集注した美しい表情で顔を燃し、
「どうぞ、皆さん、がんばって下さい」
と云った。
「私たちは及ばずながら出来るだけのおてつだいの準備をしています。それが無にならないように、どうぞしっかりやって下さい!」
 さっきのような彌次気分のない、誠意ある拍手が長く響いた。
「――では続いて報告にうつります」

 皆に要求されて、支部長の山岸が片手をズボンのポケットに入れた演説口調で、
「不肖私は、この際支部長の責を諸君と共に荷《にな》っております以上は、あくまで闘争の第一線に殪《たお》れる決意をもつ者であることを声明します。ついては、即刻闘争の具体的方法について忌憚《きたん》ない大衆的討論にうつりたいと思います」
 そう云ったころから、場内は目に見えて緊張して来た。
「支部長の提案に、質問意見があったら出して下さい」
「…………」
「議長!」
 この時、ひろ子の坐っている壁ぎわの場所からは斜向いに当るところで、一人の若い従業員が肱を突きのばすような工合に手を挙げた。
「第三班の決議を発表したいと思います」
「やって下さい」
「われわれ第三班は、今朝改めて班会を持ち、要求は当然拒絶されるであろうという見とおしに立って、即刻ストを決議し、闘争委員を選出しました」
「…………」
 微妙なざわめきが場内にひろがりはじめた。百二十七名の馘首反対を絶対に妥協しないこと。要求がきかれなければストライキ準備に入れという指令は本部から既に数日前発せられているのだ。山岸は力のつよい小波のように動きはじめた雰囲気を強いて無視し、わざとらしく燻《けむ》たそうに眉根を顰《しか》めて丸っこい手ですったマッチから煙草に火をつけている。
「ちょいと……そのウ、質問なんだが――」
 不決断に引っぱって、のろくさと一つの声が沈黙を破った。
「その第三班の決議ってのは――どういうんかね。俺にゃちょいと分らないんだが――全線立たなくても、ここだけで行こうってのかね」
「第三班ではその気なんだ」
 若い従業員は短く答えて口を噤《つぐ》んだ。
「それなら」
 のろのろものを云っていたその男は俄に居直ったように挑発的な声を高め、
「俺あ、絶対に、その案には反対だ!」
 ひろ子はその声が、さっき自分が立ってゆくとき後の方から「異議なし」と彌次った声であるのをききわけた。
「異議なし!」
 別の声が続いた。
「俺も反対だ! ここっきりなんぞでやって見ろ。馬鹿馬鹿しい。根こそぎやられて、それこそ玉なしだア」
 ひろ子は全身の注意をよびさまされた。異議をとなえているものたちの間には妙に腹の合った空気がある。
「議長!」
「議長ッ!」
 二つの声が同時に競《せ》り合って起り、甲高い方が一方を強引に押し切って、
「そりゃ違うと思うんだ」
と強く抗議した。
「二月の広尾のストのことを考えて見たって分ると思うんだ。部分的ストは可能だし、それがきっかけで全線立つ情勢は現実にもう熟しているんだ。そんなことは誰だって実際現場の様子を知っているもんには分ってるはずだと思う。さもなけりゃ、本部はどうしてああいう指令を出したんだ?」
「議長!」
 万年筆だのエヴァシャープだのを胸ポケットにさしている年配のが、落着いたような声で云った。
「俺は第一班だが……これは個人的意見なんだが、ストをやることに俺は絶対[#「絶対」に傍点]、賛成[#「賛成」に傍点]だ!」
 一言一言に重みをつけてそう云っておいて、
「但し、だ」
 一転して巧に全員の注意を自分にあつめた。
「但し、全線が一斉に立たないならば[#「全線が一斉に立たないならば」に傍点]、ストをやることは、俺は絶対[#「絶対」に傍点]に反対[#「反対」に傍点]だ!」
 ひろ子は胸の中を熱いものが逆流したように感じて唇をかんだ。何とこの幹部連中は狡猾に心理のめりはりをつかまえて、切り崩しをしているのだろう。自分がこの会合で発言権のないお客にすぎないことをひろ子は苦痛に感じた。炭がおこって火になるときだって、どこかの一点からついて全体へうつってゆくのではないか。それだのに――。
 言葉使いの意味ありげなあやに煽《あお》られて、パチ、パチ手をたたいたものがあった。
「力関係を考えないで、何でもストをやろうなんて、それこそ小児病だ。今、ここだけでなんてやれるかい!」
「議長!」
 再び甲高い声が主張した。
「力関係って云ったって、相対的なもんだぜ、放ったらかして、こっちから押さないでいても有利になって来る力関係なんて、資本主義の社会にあるもんか。現に強制調停までにだって、一ふんばりふんばればやれたんだ。それを、天下り委員会にまかしといて、謂わば、いなされたんじゃないか」
「そうだ!」
「異議ナシ!」
「今度だって、本部がこっそりクビキリ候補の名簿をこさえて、さし上げたんだっていう話さえあるじゃないか」
「チェッ!」
 大会の前後に、各車庫から「傾向的」な従業員が六十人以上警察へ引っぱられ、労救員もその中に何人かまじっていた。あらかじめ、そうしてしっかりした分子を引きぬいてしまった経営者側の意企が、こういういざという場合になって見ると、まざまざ分るのであった。ひろ子は益々くちおしく思った。
 全線ストか、さもなければ全然ストには立たない、立っても意味ないという敗北的な考えかたを、指令や方針の解釈に当って争議のはじまりっから、東交幹部の大部分が盛に従業員の心にふきこんで来ていた。情勢がこみ入ると、そういうあれか、これかへの考えかたはどこにでも起りがちであった。亀戸託児所が市電の応援をやりすぎて親たちがこわがりはじめた、その時にもやはり、争議応援を全然打切ろうという意見と託児所ぐらい一つ潰したっていいという見解とが対立して、大谷がその席でその両方とも誤っていることを指摘した。
 度々の弾圧で東交の職場大衆の中には、このいかがわしいかけ引きの底をわって、自分たちのエネルギーを正しい闘争の道へ引っぱり出すだけの組織者、先頭に立つべき指導者がのこされていない。それが、はたで見ているひろ子にさえ分った。
 場内は、立ちこめる煙草のけむりと一緒に益々混乱し、いろんな突拍子もない意見や質問が続出した。
 ストは是非やるべしだ。が、今度こそは百パーセント勝つという保証つきでやって貰いたい。
 そういうのがあるかと思うと、どういう意味か、わざわざ、
「俺は支部長にききたいんだが」
と、国家社会主義とはどういうものかと質問したものがあった。ひろ子はそれをきいて、はじめその質問者は、窮極には資本家の利益を国家が権力で守ってやる国
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