子供らの様子を見た刹那、ひろ子は、何故か、火事! と錯覚した。こちらからも思わず小走りになった。出逢いがしらのひろ子のスカートへ握りかかって、二郎が、
「あのね! あのね!」
 息を切り、
「飯田さんがつれてかれちゃったよ!」
と告げた。
「いつ!」
「さっき!」
「小倉さんは?」
「いる」
 その朝の新聞に、市電争議打ち切りが出た。タミノは、立ったまま新聞をひろげて見ていたが一遍おろしたのをまたとり上げ、
「あたしたちが、こんなことを今朝になってブル新で知るなんて。――何てくやしいんだろ」
と云った。その直截《ちょくせつ》な表現は、ひろ子の心持とも云えた。お花さんが、その話をきいて、
「あれ、あたし困っちゃったな、近所せ[#「せ」に傍点]わりいようでさ。ストライキするからってたとい一銭にしろ、袋せ[#「せ」に傍点]入れてむらったんだもん……ねえ」
 基金を出した親たちに、争議は従業員が実力を出して負けたのでないことを説明したビラを刷る、その仕度をタミノはさっき迄していたはずなのであった。
 小倉は、入って来るひろ子を見ると、
「ああ、よかった!」
 まるでたぐりよせられるように立って来た。
 二人の特高が、まるで何でもないようにやって来て、ろくに物も云わずいきなり二階へのし上った。すぐつづいてタミノがついて上り、降りて来たのを見ると、一人の特高が手に赤インクで、「赤旗」と題を刷ったものを持っていた。それでタミノの顔をぶった。
「しらばっくれんな、貴様党員じゃないか。大谷が皆喋ったぞって、それはそれはひどくぶたれなすったわ」
 そう云いながら小倉は涙を浮べた。
 ひろ子は我知らずきびしい調子で、
「そんなことは、うそだがね」
と云った。ここの託児所に一枚だってありようのないそういう文書が口実として、どこかから用意して来てつかわれる。それは、プロレタリア文化連盟の弾圧の場合にもつかわれたて[#「て」に傍点]であることをひろ子はきいていた。
 ひろ子は小倉を励ましながら、大きい白い紙に、何の理由もなくもう三ヵ月近く警察の留置場におかれている沢崎キンのことと更にさっきひっぱられて行ったタミノのことを書いて、入って来る者の目にすぐつくように、上り端の鴨居《かもい》に下げた。
 自分がこの今の一ときはのがれているその永続性が、夜までつづくか、あしたまでつづくものか、ひろ子には見当がつかなかった。ひろ子はひとりで二階へ上って見た。三畳のテーブルのまわりが取乱されている。テーブルの下の畳へ、ペン軸が上から乱暴にころがり落ちたまま突刺さっていた。しずかにそれをぬきとり、ひろ子はそれをいじりながら、夕方子供の迎えに来る親たちで、そのまま会合を持つ方針を立てた。それから下へおりて行って、小倉に一つの包みを託した。なかみは、獄中の重吉のための一着のジャケツであった。



底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第五巻」河出書房
   1951(昭和26)年5月発行
初出:「中央公論」
   1935(昭和10)年4月号
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年4月22日作成
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