コトコトやっていると、外から少しじれったそうに、
「――どれ」
と戸をひくようにした。
「駄目、駄目。こっちを先へもち上げなけりゃ」
戸があくと同時に一またぎで大谷が土間に入った。
「なるほどこれじゃ骨が折れる。却って用心がいいようなもんだね」
そして、持ち前の毒のない調子で目をしばたたきながらふ、ふ、ふ、と笑った。
「どうしたの、今時分」
「急に頼みが出来たんだがね」
「何だか音がしたと思って見てるのに、すぐ顔を出さないんだもの」
「失敬、失敬」
大谷は首をすくめるような恰好をして笑いながら、
「しょんべんしてたんだ」
低い声で云って舌を出した。
大谷の用事は、ここから明朝誰か柳島の組会へ出てくれというのであった。強制調停に不服なところへ馘首《かくしゅ》公表で、各車庫は再び動揺しはじめているのであった。
「八時に、山岸って、支部長ですがね、その男を訪ねて事務所の方へ行けばいいことになっているんだ。突然ですまないけれど――頼む、ね!」
ひろ子は、髪を編下げにし、自分に合わせては派手な貰いものの銘仙羽織を着て揚板のところにしゃがんでいるのであったが、
「――困ったナ」
とバットに火をつけている大谷を見上げた。
「――亀戸の方から誰かないかしら。こっちは飯田さんが広尾へ出るんです」
「あっちは臼井君にきいて貰ったんだ。錦糸堀があるんだそうだ」
「――あのひと……ききに行ったのかしら……」
妙な工合ににやつきながら、大谷を見つめるひろ子の視線をまともに受け、大谷は煙草を深く吸いこみながら何か前後の事情を考え合わせる風であったが、
「いや、行ってるだろう。……行ってるよ」
確信のある言勢で云った。
臼井時雄については、当人の口から元九州辺で運動に関係していたことがあると云われているばかりで、誰も確実な身元や経歴を知らなかった。いつの間にか診療所へ出入しはじめ、組合の活動に人手が足りなくなって来たら、これもまたいつの間にか、書記局の手伝いのようになった。二十四五の、後姿を見ると肩の落ちたような感じの小柄な男であった。
ひろ子は、あんまり人嫌いしない性質であったが、この臼井がニュースなど持って来て、喋るでもなく、子供らと遊ぶでもなく、その辺を愚図愚図して自分たちの立居振舞を見ていられると、背中がむずついて来るような居心地わるさを感じた。いつになっても本能的に馴染《なじ》むことの出来ないところがあって、ひろ子に一種の苦しい気分を起させるのであった。臼井の云うことにはちぐはぐなこともあった。
或る席で、ひろ子が臼井に対してもっている否定的な印象を述べた時も、大谷は例によって目を盛にしばたたき、口を尖らすようにして、あぐらをかいた膝の前でバットの空箱を細かく裂きながら注意ぶかく傾聴はしたが、決定的な意見は云わなかった。最後に頭を上げ、
「――調査する必要はあるね」
と云った。市電のことが起ってから、大谷は応援活動の方面での責任者となり、忙しさにまぎれて調査もおそらくそのままなのだろう。臼井のことを云うひろ子と大谷との心持の間には、それだけのたたまって来ているものがあるのであった。
大谷は、土間に落した吸い殼を穿《は》き減らした下駄のうしろで踏み消しながら、
「――じゃ頼みました、八時に、山岸、ね」
「…………」
ひろ子は、片腕を高く頭の上へまわして、左手でその手の先を引ぱるような困惑の表情をした。
「子供のものもらい[#「ものもらい」に傍点]のことがあるし――、弱ったわ、本当に」
「ん――。ひる前ですむよ。それからだっていいだろう? もし何なら夜だっていいさ、診療所はどうせ十時までだもの」
ひろ子は、そういうやりかたでなく、もっと親たちの心持にも響いてゆくように、託児所の手不足からひろがったものもらい[#「ものもらい」に傍点]の始末をしたいのであった。夕方、迎えに立ちよるおっかさんの顔を見るなり、
「おっかちゃん! 六坊、きょう先生んとこへ行ったよ、目洗ったんだよ! ちっとも痛くなんかないや!」
ぴんつくしながら子供の口からきかされれば、同じことながら母親たちが感じるあたたかみはどんなに違うだろう。
沢崎がつかまえられているからばかりでなく、特に今そういう心くばりは母親たちの託児所に対する気持の傾きに対しても大切だ。ひろ子にはその必要が見えていた。大谷がいそがしい活動の間で、そこへ迄気がつかないのは無理ないし、大体、今度の応援につれて託児所として起って来ている毎日の様々の困難は、個人的な立話で解決されることでもないのであった。
「じゃ、とにかく何とかしますから」
ひろ子は、やがて両手を膝に突ぱるようにしてゆっくり立ち上りながら云った。
「――今頃ふらふらして、あなた、大丈夫かしら」
「マアいいだろう、第三日曜
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