、別個の問題がある。あるものが芸術品としてつまらないということとはまた別に、絵画の問題に外からの作用がどう及ぼすか、それが絵画の真の発展にどう働くかというそのこと自体としての問題がおこって来る。

 出版の統制の基本的なところに、極めてこれに近い研究問題が存在するのではないだろうか。一般の印象にさぐり入ってみれば、今日までのところ、統制という響の与える感じは何かを切り下げること、切りすてることという方向でうけられていて、統制、ああじゃあこれまでより豊富になる、という方向への感じは、育くまれていないのが現実だろうと思う。
 出版の統制ということを、直感的に良書のゆたかな出版時代の到来としてうけている市民は、なかりそうに思う。統制でのこった本はどんなものかということに対する一抹の杞憂が、誰の胸のなかにも在るというのが正直なところではないだろうか。
 先頃、朝日新聞の学芸欄に林達夫氏が「日本出版文化協会」の準備部会のような場所で行われた投票の結果について書いておられた。『改造』『中央公論』などという綜合雑誌の発行所がその雑誌の属する第七部とかには出ていないで中央公論社は、『婦人公論』で第五部に、改造社は『短歌研究』、『俳句研究』で、研究社の『英語研究』と同じ類別のなかにくまれていたと書かれていたように記憶する。そして、岩波の『文学』、『教育』、『哲学』が、博文館の将棋の友とかいう娯楽の雑誌と同じ類別にくまれて投票されていたとおぼえる。
「研究」という内容は様々で、中学生の英語の研究と、斎藤茂吉氏の柿本人麿の研究とはおのずから異っているのが現実である。少くとも東亜の指導力たる日本は、その程度の文明の奥ゆきというか、厚みというかは蓄積されて来ている。
 文学はなるほど人の心を慰めるものであり将棋も名人となれば一つの精神の王国をもっているであろう。だが、名人にとって将棋は娯楽の範囲にとどまって考えられてはいないだろうし、文学は、国の光として英訳して海外に誇るべきものの一つとして考えられ扱われている。源氏物語がその一例だが、将棋の友とそれとの間に、常識は別種のものを感じ理解している。
 きょうの新聞は、内閣情報部で第二回準備委員会をひらき、具体案は民間六人、官庁三人の小委員会の協議にゆだねられることになったと報じている。
 先頃朝日に出された記事は、現代の読書するかぎりの日本人の
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