反撥した人々をもち、今日では、本質の異った社会連帯によって女の性を保護することが客間のエティケット以上の重要事であることを理解し、その実現に努力しているソヴェトのような実例が出現して来ている。他の一方には、しきたりはしきたりとして、他に愛人をもっている妻が毒々しい恨を心臓にかくしながら、これ又自分を裏切っている良人に腕を扶けられつつ、音楽の裡に入って行くような光景がくりかえされている。
日本の女がヨーロッパ風のエティケットに何か新鮮なものを感じたり、外国の男にわけもなくひきつけられたりするところは、とりもなおさずヨーロッパの常套性《マンネリズム》がまだおくれて東洋に感情の市場をもっているということになるのである。
そのように観て来て、私は日本の一般の若い女が、いつ、欧風エティケットの表面性を破っての男の節度の美、献身の美を理解し、それを求め、それらが生れるに可能な社会の条件をこしらえてゆくために努力しなければならないのはつまりは女自身であることを知るであろうと、遙かな暁空を眺めるような心持になるのである。
いつの時代にも、或る種のかしこさを持った女は、社会を支配している多数者である男の立場に身をよせて物を云うならわしである。ものわかりよいということ、男心を理解しているということ、そのことがその女へ男の興味を呼びむかえる。率直に云って、今の日本の無差別な復古調は、女の中から女を或る意味で行燈のかげへ呼びもどす傾向をかもし出していると思う。昔ドイツのカイゼルが三つのKと云った言葉はヒットラーの代になって子持の母への賞金とか独身税とかになって現れている。日本では良妻賢母という言葉によっては既に新しい刺戟を与えられないが、服飾や愛の技巧の研究に女が公然と物を云うようになると同時に、そういう趣味的な面を通じて、案外な程度に、復古へ誘いこまれ、性的な交渉では女が受身という点が粉飾的に強調されている。日本が、本当の自由主義時代を持たず、しかも急調に今日に至っていることに思い及べば、今日の或る種の女の中にあるこのようなポーズがどういう性質の歴史的混合物であるかは自ら明瞭ではないだろうか。
パラマウントが日本へ来て撮影して行った日本紹介の天然色映画を、偶然の機会で見ることが出来た。こんなに桜が見事なところが日本にもあったのであろうかと、私はおどろいた。普通の東京住いの市民などは見たことないような桜花爛漫の美を眺めたが、点景人物として映されている日本の女はどれも皆特別仕立ての日本髷と、特別仕立てに誇張された歩きぶりとである。花の中なる花の姿で全篇が終っている。私は身なりよい人々の間にはさまってそれを眺めながら、何か心の中に呻きを感じたのであった。[#地付き]〔一九三六年十二月〕
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「文芸通信」
1936(昭和11)年12月1日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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