纏りなくせわしい日を送った。M家の金のこともあるので、出来るだけ早く帰国したいと心は焦りながら、今夜浩の世話になっているK商店を訪ねて、おそくも明日の夜行で立ちたいと、彼が決心したのは、予定より五日も後れていた。
平常、高瀬などでも浩のことは賞めこそすれ、悪いなどとは爪の先ほども云ったことがないので、孝之進は心ひそかにKの取締りからも、同様な賞讃を期待して出かけて行った。応接間に通されて、取締りが面会した。
「浩さんもなかなかよく尽していてくれるので、私共もめっけものだと思って喜んでおります」
最初は、普通、若い者にきっと与えられる通りの賞め言葉が続いた。「正直だとか、品行が正しいとか云うのは、俺の子なら、何も驚くことではない」と孝之進は思った。一体彼は、昔から家老という代々の家柄は、たとい自分の代でその職にはつかなくなったとしてもどこか平《ひら》の士とは違ったところがなければならないと思っていた。が、貧乏なときでも、病気のときでも、それは別に奇蹟を現わすほどの力もないらしく見えたまま今日まで過ぎて来たのだ。けれども、浩を賞めぬ者のないということ。「それそこだ! そこが争われぬものだて」と彼は思ったのである。孝之進は、「いいえそんなことは、ちょっともありません」という返事を聞きたいばかりに、「それでも何か注意すべきことがあれば」聞かして欲しいと折返して頼んだ。そして、全く彼の心を動顛させる事実として、浩が文学を勉強していること、庸之助とつき合っていることを聞かされたのであった。孝之進は、取締りの云うことは一々もっともだと思った。この順で行けば鰻上りに出世して、近い内には社会に枢要な位置を得る人物――直接政府の官省から、招待状などの来るような者――になれるだろうと思っていた彼の希望は、根柢から覆がえってしまったように感じた。彼の目の前には、はてもないガラン洞の口がいきなり開いた。体中の力が、毛穴から一時に抜けてしまったようで、孝之進は、暫く何とも云えなかった。だんだん心が落付いて来るにつれて、自分の愛しているものが、自分の苦労も知らずに勝手気儘にふるまっているのを見る失望が、やがては憎いというような感情に変じて来た。その非常に複雑な激情に血を湧き立たせながら、彼は浩を自分のところへ呼んでもらった。「戯作者。罪人の息子。この馬鹿奴!」断片的に、単語が頭の中に浮いたり沈んだりした。
暫く睨みつけてから、孝之進は、浩に、
「勘当する! 二度と顔を見せるな!」
と、ぶつけるような声で云った。非常に興奮している孝之進に口添えをして、取締りは、彼の憤りの理由を説明した。
「杵築にお前が親しくしていることを云ったものでね」
そのとき、取締りの顔には、「云わないでも俺はちゃんと知っているぞ」という監督者でなければ分らないような満足した、幾分誇らしげな表情が現われた。そして、孝之進の憤りがあまり激しいので、「こうまで怒ろうとは思わなかったが」というふうに彼の方を眺めた。浩は一言も弁解もせず、反駁もしなかった。彼には、とりまとめ得ないほど、動揺している老父の感情を、この上掻き乱すに忍びなかったのである。それに、いくら弁解しても、互に理解し合えない或るものが横わっていることをも、彼は考えたのである。
取締りが席をはずしてから、孝之進は浩に繰返し繰返しその心得違いを諭《さと》した。彼は、いやしくも家老の家に生れたものが、罪人の息子――夕刊売と親しくし、つまらない小説などに凝っていることは恥辱だと思え。もう決して致しませんと誓言しろと云って涙をこぼした。浩は、口では強い言葉を出しながら、その奥では哀願しているような父親の姿を見ると、辛い思いで胸が一杯になって来た。
「お父さんの考えていらっしゃるほど、文学というものは賤《いや》しいものではありません。どうぞ心配しないで下さい!」
「それではやめないと云うのか?」
浩は迷った。「止めないのはもちろんのことではある。が、父親にそう云ったらどのくらい、たとい考え違いであっても、悲しむか分らない。それなら、止めますと云うか!」彼の本心が承知しなかった。一時逃れのごまかしをすることは、互のために真の意味で何にもならぬ。自分を偽ることは堪えられない。こういうときに、「止めます」と云いきる人の例はたくさん知っている。
けれども……。浩はキッパリと、
「止められません!」と云った。
「止められん?」
「ええ止められませんお父さん! あなたの心持はよく解ります。けれども……けれども書くことも、読むことも止めてしまったら、何に励まされて、辛いことや苦しいことを堪えて行くんでしょう? ねえお父さん! あなたも辛いだろうが、僕だって決して楽じゃあないんです!」
浩はポロポロと涙をこぼした。父親に対しての愛情と、芸術的良心が、一致しない奔流となって、彼の体中に渦巻いた。
息子の決然とした態度に、孝之進の心は、たじろぎ、よろめいた。大きな大きな絶望が、真暗な谷底へ、一気に彼を蹴落したのである。説明のつかない涙が、とめどもなくこぼれた。親子二人が、卓子《テーブル》を挾んで、男泣きに泣いているとき、すぐ傍の若い者達の部屋では、幾度ともなく、笑声が崩れては響いた。浩は、無言のまま強い緊張で、後頭から頸筋にかけての筋肉が、重く強直してしまったような心持でいた。
「二度と顔を見ぬ」
孝之進は、帰りしなにまた繰返した。そしてトボトボと帰途に就いた。浩は夜道を独りやるに忍びないので、幾度送って行くと云っても、孝之進はきかなかった。
「貴様のような奴に送られんでもよい!」
けれども、彼がK商店の門を出て停留所まで来る間に、振返って見ると、一つの人影が、幾らかの間隔をおいて自分について来るのを発見した。浩だということはすぐ分った。けれども孝之進は知らない振をして、じきに来た電車に乗ってしまった。が、いざ自分が乗ろうとしたとき、浩の影がお辞儀をしたらしく見えたことが、非常に孝之進の心を掻き乱した。駈け戻って、叱り過ぎたと云いたいような心持が強く起った。が、そうするだけの勇気が、彼にはなかった。
「可哀そうなお父さん! ほんとに可哀そうなお父さん! あなたの心持は分っています。よく! けれども、あなたの思っていらっしゃる偉い人には、私はならないでしょう!」
大きい音を立てながら、馳け去る電車のかげを追いながら浩はつぶやいた。
居眠っているような姿で、思い沈んだまま孝之進は小石川のはてまで、運ばれて行った。停留場のすぐ傍から、家までの道路は、瓦斯《ガス》だか、水道だかの工事で、そこここ掘返されていた。低く、暗く灯っているランプの明りなどでは、視力の弱っている孝之進に、平らな地面と、泥や砂利などのゴタゴタ盛上っているところとの見境いが、はっきり解ろうはずがない。まして、心が疲れ、望みを失ったようになっている今、その混雑した路を、巧く通り抜けることは、非常に困難なことである。孝之進は、ちょうど盲人の通りに、上半身を心持後へそらせ、杖がわりに持っている洋傘《こうもり》で、前方を探り探りたどって行った。ところへ後から追いついた一台の自転車が、彼に突かかりそうに近よってから、耳元で威すように激しくベルを鳴らしたてた。あまり急だったので、孝之進は少しくあわてた。そして避けようと一歩傍へ踏み出した途端、彼の歯の下駄はフト、おそろしく堅く、でこぼこな何かの塊りにふみかけた。平均を失った体と一緒に、足の下の塊りもゆすれる。ますます調子の取れなくなった孝之進の体は、二三度前後に、大きく揺れると、ハッと思う間もなく仰向きのまま、たたきつけられたように倒れてしまったのである。その瞬間孝之進は、後頭部と腰が痲※[#「やまいだれ+(鼾−干−自)」、第4水準2−81−55]するような心持がした。グラグラとして真黒になった心の前で、ちょうど覗き眼鏡の種紙が、カタリといってかえる通りに、今まで自分の前一杯にあった、幅の広い何物かが、微かにカタリ……と音を立てて、届かない向うにかえったように感じた。
十一
退院してからお咲の工合もあまりよくない上に、孝之進まで、あの夜転んだのが元で、どことなく体を悪くしてしまったことは、彼等にとってかえすがえすもの痛手であった。ほとんど敷き通しにしてあるお咲の床の傍に、もう一つ床を並べて、何ということはなしただ眠ってばかりいる孝之進の様子に家中は、ひそかに眉をひそめた。ようようお咲を、それも血の出るような思いをして、やっと出したばかりだのにすぐまたお代りに出られては、とうていやり切れなかったのである。
翌日、そのことを電話で知らされたときには、浩も半分病人のようであった。昨夜の睡眠不足、精神過労に加えて、二三日前からの風邪で、体中に熱っぽいけだるさが、蔓《はびこ》っていた。電車に乗っている間中彼は鈍痛を感じる頭のしんで、考えに沈みつづけていた。
浩が行ったとき、孝之進は二階で眠っていた。仰向けに、ユサリともせず寝ている彼の、口の周囲や目のあたりに、気のせいかもしれないが、昨夜まではなかった皺がふえているように見えて、浩の心はかるく臆した。足音を忍ばせて、傍にマジマジと横わっているお咲の枕元に坐って頭を下げると、彼女はいきなり、
「なぜお父さんを怒らせなんかしたの? あなたは!……。御覧なさいよ!」
と咎めるように囁いた。沈黙している彼を捕えて、半ば絶望的な感情から起る、執拗な意地悪さで、お咲は長いこと、彼を責めたり、憤ったりした。
かなりよく眠っていた孝之進は、聞えないようで妙に耳につく彼女の話声に、うすうすと眠りからさめた。が、起き立ての子供のように、意識の統一のつかない彼は、ぼんやりとしていると、一人の若い者が裾の方に来てお辞儀をした。半分目を瞑って、後頭部の鈍痛を味うように感じていた彼は、
「誰れだ?」
とはっきり云ったつもりで声をかけた。けれども、浩の耳には、そち、こちに散らばっている一言一言を拾い集めて云ったように、
「だ、れ、だ?」とほか聞えなかった。情けない心持が、サアッと体中に流れた。
「お父さん? 工合はどんなです? 頭が痛みますか?」
「お父さん? ああ浩、お前だったかい!」
どんよりしていた孝之進の顔が一時、明るくなって、またもとの陰気さに戻った。大笑いになりそうな嬉しさを感じて擡げた頭を、またもとの通り枕に落しながら、孝之進は、
「帰れ帰れ!」
と云いすてて、寝がえりを打った。お咲の詰問するような眼差しが鋭く浩を射た。彼は、妙に縺れ合って、どれが、どの色とも分らない感情が込み上げて来るのを感じた。恥かしいのでも、恐ろしいのでもない。まして憎らしいのではないけれども、心の平調が乱れた。落着きが、一時自分から去ってしまったような気がした。涙ぐみながら、だまって坐っていた彼は、やがて「お大切になさい」と云って立ち上った。
下へ降りて来て見ると、長火鉢の前で、何か土鍋で煮ていた年寄は、黙って立っている浩を、見上げながら、「時を見て、またゆるりとお話しなさるがいいよ。若いときは、誰でもねえ……」と、慰めるとも追懐するともつかない表情を浮べた。
その後、浩は一日に一度ぐらいずつきっと父親の見舞いに来た。が、二階には行かないで、持って来た果物だの菓子だのを年寄や、また時としてはお咲に頼んで帰った。孝之進は、浩が来たらしい声が下から聞えて来ると、耳を澄ませて、何事も洩らさず聞きとるに努力していた。「もうそろそろ来そうなものだ」と思っていると、格子の鈴が鳴る。帰るらしい挨拶の聞えるときや、一日心待ちに待って来られないときなどには、訳の分らない淋しさが湧いてきいきいした。けれども、彼はただの一度も浩のことを口に出しては訊かなかったし、来ているのが解っても、上れと云わなかった。「そこが武士の意地」なのであるらしかった。そのくせ、浩が持って来た果物などを食べるとき、お咲が一緒に泣き出してしまうような涙をこぼした。
浩は、父親に「帰れ」と云われた息子として、自分に妙な同情や臆測が加
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