、姉の体からは抜けてしまったらしい。ちょうど亀裂《ひび》だらけになって、今にもこわれそうな石地蔵が、外側に絡みついた蔦の力でばかり、やっと保《も》っているのを見るような心持がした。実際お咲にとっては、小さいなりに一家の主婦という位置が、負いきれない重荷となってきたのである。
 人のいない二階の隅で、部屋中に輝やいている夕陽の光りと、チラチラ、チラチラ、と波のように動いている黒い葉影などを眺めながら、お咲は悲しい思いに耽った。若し自分が死ぬとなれば、否でも応でも遺して行かなければならない息子の咲二のことを思うと、胸が一杯になった。ようよう今年の春から小学に通うようになりはなっても、何だか他人に可愛がられない子を、独り置いて逝《ゆ》かなければならないのかと思うと、死ぬにも死なれない気がした。一足、一足何か深い底の知れないところへ、ずり落ちかかっているようで、お咲は気が気でなかった。
「咲ちゃん、母さんが死んじゃったらどう?」
 訳の分らない顔つきをしている息子を、傍に引きよせながら、お咲は淋しく訊ねた。そして、ひそかに期待していた通りに、
「死んじゃあいや※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
と、はっきり一口に云われると、滅入っていた心も引き立って、「ほんとうにねえ。今死んじゃあいられないわ」と思いなおすのが常であった。小さい手鏡の中に荒れた生え際などを写しながら、
「まあずいぶん眼が窪みましたねえ。こんなになっちゃった……。死病っていうものは、傍《はた》から見ると、一目で分るものですってねえ。ほんとにそうなんでしょうか? あなたどうお思いなすって?」
と云ったりした。
「私なんかもう生きるのも死ぬのも子のためばかりなんですものねえ、咲ちゃんのことを思うと、ちょっとでも、もう死んだ方がましだと思ったりしたことが、こわくなるくらいよ」
 浩が買って来た人参を飲んだり、評判の名灸に通ったりしても、ジリジリと病気は悪い方へ進んで行った。普通なら大病人扱いにされそうに※[#「うかんむり/婁」、106−14]れたお咲が、せくせくしながら働いているのを見ると、浩は僅かばかりの雪を掌にのせて、輝く日光の下で解かすまい解かすまいとしながら立たせられているような心持になった。目に見えて姉の体は、細く細くなって行く。けれども自分の力ではどうにもならない。大きな力が、勝手気ままに姉の体を動かして行くのを、止めたとてとても力が足りない。ただ涙をこぼしたり思い悩んだりするほかしようのない自分等が、浩には辛かった。激しい波浪と闘いながら、辛うじてつかまり合っているような自分達のうちから、また一人|攫《さら》われて行くということを、考えてさえゾッとしずにはおられなかった。自分と年のあまり違わないただ一人の姉、女性という、同情の上に憧憬的な敬慕を加えて感じている者の上に、死を予想するのは堪らない。彼は死なせたくなかった。ほんとうに生きていて欲しかった。出来るだけ姉に力をつけながら、浩はつくづく自分がふがいないというように感じたりしたのである。
 家の中を歩くのさえ大儀になってからはお咲も、もう死ぬときがきたと感じた。
「死ななけりゃあならないんだろうか?」
 お咲は、誰にともなく訊ねた。
「私が死ぬ? 今?」
 動けなくなる前に、せめて咲二の平常着《ふだんぎ》だけでも、まとめたいと、お咲は妙にがらん洞になったような心持を感じながら、鍵裂きを繕ったり、腰上げをなおしたりした。学校へも一度は是非行って、よくお願いもしておきたいと思っていると、或る日、先生の方から咲二に、呼び出しの手紙を持たせてよこした。一月に一度か二度は、きっと学校に呼ばれて、お咲は、人並みでない咲二について、親の身になれば情ない、いろいろの小言を聞かなければならなかったのである。

 四月の第一日。R小学校の運動場には、新入学の児童が多勢、立ったり歩いたりしていた。最後に教室から出されて、小砂利を敷きつめた広場の一隅に並ばされた一群の中には、紺がすりの着物を着た咲二が混っていた。付き添ってきた母親達の傍に二列に立ちどまらせると、「皆さん! 右と左を知っていますか? お箸を持つのはどっちでしょう?」と先生が笑いながら訊ねた。
「先生僕知ってます!」
「僕も!」
「僕も知ってます※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 元気な声が、蜂の巣を掻き立てたように叫んだ。咲二も何時の間にか知っていた。お咲は有難かった。
「それじゃあ、今先生が右向けえ右! と云いますから、そうしたら皆さん右を向いて御覧なさい。さあよしか、右向けえ、右!」
 子供達は機械のように、体中で右向けをした。たくさんの足の下で、崩れる小石のザクザクという音、楽しげな笑声が、明るい四月の太陽の下で躍《おど》った。
 けれども! 咲二だけは動かない。
 お咲は目の前で、青い空と光る地面とが、ごちゃ混ぜになったような気がした。頭がひとりでに下った。
 振返って、この様子を見た先生は、意外な顔をして訊ねた。
「なぜ右を向かないの?」
「僕右向きたくない!」
 母親達の中から、囁《ささや》きが小波のように起った。「面白いお子さんですこと」と云う一つの声が、咎《とが》めるようにお咲の耳を撃った。
 先生は体をこごめて何か云った。そして、「好い子だからね」と云いながら、頭を撫でて、両手で右を向かせた。先生の顔には、始終微笑が漂っていた。手やわらかであった。が、屈んでいた体を持ち上げた彼の眼――詰問するように母親達の群へ投げた眼差し――を見た瞬間、お咲は直覚的に或ることを感じた。
「もう憎まれてしまった!」
「あれが始まりだったのだ」とお咲は思い廻らした。
「何もお前ばかり悪いんじゃあないわねえ」いない咲二を慰めるようにつぶやいた彼女は涙を拭いた。
 翌日は大変暑かった。が押してお咲は出かけた。毎度の苦情――注意が散漫だとか、従順でないとかいうこと――が、並べられた。そして注意しろと幾度も幾度も繰返された。
 妙に念を入れた、複雑な表情をして云った気をつけろ、注意をしろという言葉の中から、彼女は何か心にうなずいた。帰途に買った一ダースの靴下を持って、翌《あく》る日遠いところを先生の家まで行って、とっくりと咲二のことを頼んできたのである。なぜ早く気が付かなかったろうというような軽い悔みをさえ感じた。
 二日つづけて、暑い中を歩いたことは、お咲の体に悪かった。帰宅するとまもなく、彼女は激しい悪寒《さむけ》に襲われ、ついで高い熱が出た。開けている下瞼の方から、大波のように真黒いものが押しよせて来て暫くの間は、何も、見えも聞えも、しないようになった。押えられ押えられしていた病魔が、一どきに彼女を虐《さい》なみにかかったのである。
 浩が驚いて駈けつけたときには、お咲は熱と疲労のために、病的な眠りに落ちていた。
 熱の火照《ほて》りで珍らしく冴えた頬をして、髪を引きつめのまま仰向きに寝ているお咲の顔は、急に子供に戻ったように見える。荒れた肌、調子を取っている鼻翼の顫動、夢に誘われるように、微かな微笑が乾いた唇の隅に現われたり、消えたりした。浩は、陰気な火かげで、かつて見たことのなかったほど活動している彼女の表情を見守った。彼女の持っている、すべての美くしい魂が、この貧しくきたない部屋の中で、燃え輝やいているように彼は感じた。紫色の陰をもって、丸く小さく盛り上っている瞼のかげで、いとしい、しおらしい姉の心はささやいているようであった。
「ほんとうに、可哀そうな私共! 私達の気の毒な一族……。けれども、今私が死ななけりゃあならないということを、誰が知っているの?」
 あやしむような、魅惑的な微笑が、彼女の唇に浮んで、また消えた。

        三

 お咲の病気は、皆が予期していたより大病であった。手後れと、無理な働きをしたのが、一層重くさせていた。骨盤結核という病名で、お咲は神田のS病院に入院して手術を受けたのである。
 このことを知らされた国許の親達は、非常に驚いた。まさかこれほどまでになろうとは、誰も思っていなかったので、暫くは何をどうして好いやら、途方に暮れたような様子であった。
 孝之進は、娘の病気などには、少しも乱されないように、強いて心を励ました。死ぬのではあるまいかという不安。どうかしてなおしてやりたいものだという心持などが、追い払ってもしつこくつきまとって心から離れなかった。八人も生れた子はありながら、その中の六人まで連れて行ってしまった死神が、今また大切な一人をねらっていると思うと、年をとり、心の弱くなった孝之進は堪らなかった。いろいろな心痛で、とかく心が打ち負かされそうになっても、彼は老妻のおらくなどには、一言も洩さなかった。人間一人二人の死は、さほど悲しむべきものと考えないように教育された若いときの記憶習慣が、孝之進の心に、何かにつけて堪え難い矛盾を感じさせた。仏壇の前に端坐して、祈念を凝《こら》している妻の姿などを、まじまじと眺めながら、彼は「女子《おなご》は楽なものじゃ」と思った。女は泣くもの歎くものと昔から許されていることも、口先では侮《あな》どっているものの、衷心ではほんとに美しいこともある。涙を浮べながらでも笑わずに済まない男の意地――たといそれは孝之進が自分ぎめの考えではあったにしろ――はずいぶんと辛いものであった。娘が病気になってから、おらくは、以前よりはっきりと、地獄、極楽の夢を見るようになった。
 或るときは一家睦まじく一つの蓮の上に安坐していることもあり、また或るときは、お咲だけが、蓮から辷り落ちて、這い上ろうとしながら、とうとう、下のどこか暗い方へ落ちて行ってしまったところなどを見た。生きるのも死ぬのも因縁ごと、如来様ばかりが御承知でいらっしゃると観じている彼女は、怨むべき何物も持たない。精進を益々固く守り、彼女にとっては唯一の財宝である菩提樹《ぼだいじゅ》の実の数珠が、終日その手からはなれなかった。
「南無阿彌陀仏、阿彌陀様!」
 おらくの瞼は自ずと合った。
「若し生きますものなら、どうぞお助け下さいませ。また若しお迎え下さいますものならば、どうぞ極楽往生の出来ますように……」
 サラサラ、サラサラと好い音をたてて数珠を爪繰《つまぐ》りながら、おらくは涙をこぼした。
「私のこの婆《ばば》の力で何ごとが出来ましょう……?」
 その間にも、お咲の弱りきった体のすぐ上のところまで、しばしば死が迫ってきた。今か、今かとまで思われたことも一度や、二度ではなかった。けれども、いつも、もう一息というところで、彼女の若さが踏み止まった。一週間も危篤な状態を持ちつづけると、もうほんのほんの少しずつ生きる望みが湧いてきた。そして、急にどういうことはないと云われるまで、皆は自分等まで一緒に死にかかっているような心持でいたのである。風に煽おられて、今にも消えそうに、大きく小さく揺らめいたり、瞬《またた》いたりしていた蝋燭の焔が、危くも持ちなおした通りに、快方に向くと彼女のまわりは、にわかにパッと明るくなった。安心と歓喜と、愛情の強いほとばしりで、お咲の病床に向って、楽しげに突進して行くように浩は感じた。当面の死から逃れ得たことは、彼女の生命が永久的に保証されたかのような安心をさえ与えたのであった。運がよかったということが口々に繰返され、医者まで、「全く好い塩梅でしたなあ!」と、自分等の技術に対してよりも、むしろ何か無形の力に対して感歎しているらしいのを見ると、浩も、「ほんとに危ういことだった」としみじみ感じない訳には行かなかった。そして、あれほど生かそうとする力と死なそうとする力が、互に接近し、優劣なく見えていたときに、ほんの機勢《はずみ》といいたいほどの力が加わったために、彼女が今日こうやっていられるのだと思うと、何だか恐ろしかった。自分が一生送る間に――もちろん一生といったところで、その長さを予定することは出来ないが――今度のような、微妙な力の働きを感じて、心を動かされることがどのくらい多いのだろうかと思うと、もっとせっせ
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