緊張しきった感情が、少しは緩められた。が、「何と云ったら好いのか!」彼には言葉が分らない。同じように体を堅くしながら、無言のまま二人は立っていた。
都会の雑音が、彼等の頭上に渦巻き返っている。黒い犬が二人を嗅いで通り過ぎた。
九
果して浩が予想し、案じていた通りのことが、痛ましい事実となって、庸之助の上に現われていた。或る意味においては、庸之助は、浩の思っていたよりも、もう一層下ったところまで行っていたのである。
彼はもうすっかり夕刊売子になっていた。言葉から態度から、特有な見栄まで、もうすっかり自分のものにしているのを見て、浩は言葉に云えない感にうたれた。庸之助は、半ば愚弄と侮蔑の意味であり、半ばは友情から、浩のことを「坊っちゃん、坊ちゃん」と呼んだ。浩は、冷汗を掻いた。
「坊ちゃんお前はいい男だね。だが利口じゃあないよ。俺みたいな人間に、こびりついて友達だなんぞと云っていると世間並みな出世は出来ゃしねえ。何にしろ俺は、懲役人の息子だからねフフフフ。生かして置かれるんだけでももったいないんだろうさ」
彼は、浩が一生懸命になって、力をつけようが、励まそうが、始めから耳をかそうともしなかった。
「努力も忍耐も結構だろうさ、が、俺のことじゃあねえよ。浮き上ろう浮き上ろうとする頭を、ちょいと出ると押し込み押し込みされちゃあ、どんな強情な奴だって、往生するほかないじゃあないかい? もう少し年をとると、お前も俺の心持が解って来る。利口なようでもお前の学問は本の上だ、可愛がられた者の利口だ、なあ坊ちゃん」
庸之助のすべては、浩に一種の圧迫を感じさせた。たった二つほか年の違わないなどということは、二人の間では、もう問題でなくなったらしい。浩は、彼がほんの僅かの間に、こんなに心が変るほどのいろいろな経験を得て来たのかと思うと、善い悪いなどは抜きにして、各自のいろいろな生活ということが、強く感じられた。庸之助に会ったとき、浩はきっと陰気な沈んだ心持になった。彼に同情はしていても、彼に職業を与えるなどということは自分の力では出来ない。彼からいえば、「俺のような者は、理想なんかより、飯一杯の方へ頭が下る」と云う通り、自分の思っていてどうにもならない同情などは、迷惑ではあろうとも、何の足しにもならないのは、浩にだって解っていた。けれども浩としては、それならばと
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