る位置は、そうどこにでも転がっていないことは解っていたのだ。いろいろ先のこと、また現在のことを考えると、浩は、絵葉書の集めっくらをしたり、気どった――浩には少しもよいとは思えない――先のムックリ図々しく持ち上った靴などを鳴らしていられなかった。店でくれる黒い事務服の古くなったのを、彼は外出しないときは着ることにしていた。僅かの時間を出来るだけ、利用しようと努めた。それが、変り者と呼ばれる原因である。が、彼はそんなことに頓着するほどの余裕がなかった。制せられない知識慾――押えられる場合が多いにつれて、反動的に強くなりまさってくる――は、ときどき彼に苦しい思いさえさせたのである。
浩が、暇を惜しんで勉強するとか、月給の中から、ほんの僅かずつでも、国許の両親へ送っているということなどは、彼がくすぐったいように感じる賞め言葉を、ますます増させる材料になった。何ぞというと、引き合いに出される。それも、他の多くの若い者の励ましのためだと余りはっきり解っているときなどは、彼は嬉しいどころか、かえって不愉快になりなりした。が、ともかく一族の中では、どのくらい幸運な部に属する自分か分らないと思って、彼は一生懸命に自分のほんとの道を拓《ひら》くべき努力をつづけた。けれども、ときには彼の心も情けないと感じることがあるくらい、好意の枷《かせ》が体中に、ドッシリと重く重く懸っていたのである。
浩の一族は、実際幸福に見離されたように見えた。多勢生れた同胞《きょうだい》も、皆早く死んで自分と遺ったただ一人の姉のお咲も決して楽な生活はしていない。嫁入先は、相当に名誉のあった仏師だったのだそうだが、当主――お咲の良人――恭二は見るから生存に堪えられなそうな人であった。かえって隠居の仁三郎の方が、若々しく見えるくらい衰えている。もとから貧乏なのだが、お咲が十六のとき、娘の婚期ばかり気にやんでいた母親が、自分の身分と引きくらべて何の苦情なく、嫁入らせてしまったのである。この縁を取り逃したらもう二度とはない好機らしく思われたのであった。翌年咲二が生れてこのかた、お咲の全生命は子供に向って傾注され、生活のあらゆる悩ましい思いは、子供に対する愛情でそのときどきに焼却せられながら、どうやら今日まで過ぎて来たのである。派手な、明るい世間から見れば、ざらにある、否それより惨めな家に、相当に調《ととの》った容貌を
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