どこかに、大穴がポッカリ明いたようでもある。体中に強い圧《おもし》を加えられているようで、息苦しかった。目の奥で天井と床が一かたまりに見えるほど混乱しながら、傍で見れば、茫然と無感動らしい挙動で、浩は今まで庸之助の使っていた机上に、並べられてある遺留品を眺めていた。使いかけの赤、黒のインク壺、硯、その他|塵紙《ちりがみ》や古雑誌のゴタゴタしている真中に、黒く足跡のついた上草履が、誰かのいたずらで、きっちり並べられてある。指紋まで見えそうに写っている足跡を見ると、浩は急に、年中湿って冷たかった、膏性《あぶらしょう》の庸之助の手の感触を思い出した。その思い出が、急に焼けつくほどの愛情を燃え立たせた。彼の心に、はっきりと淋しさが辷り込んで来た。涙がおのずと湧いた。
「とうとうこうなったなあ……。あの人も好い人だったのに!」
 自分の机に坐って、あて途もなくあるものに、手を触れて心をまぎらそうとしていた彼は、鉄の文鎮《ぶんちん》の下に、一本の封書を発見した。ハッと思って、一度目はほとんど意味も分らずに読んだ。二度三度、浩は一行ほか書いてない庸之助の置手紙を離そうともしなかった。それは端々の震えた字――読み難いほど画の乱れたよろけた字――で、「もう二度とは会わない。親切を謝す。Y生」と、弓形《ゆみなり》に曲ってただ一行ほか書かれてはいなかったが、浩にとっては、それ等の言葉から三行も四行もの意味がよみとれたのである。
「木綿さん」というかわり、もう庸之助には、「火の子」という綽名《あだな》が付いていた。赤い着物の子で、それ自身もいつ、火事を起すか解らない危険性を帯びているからというのであった。
 平常からずいぶん反感は持ちながら、さほどの腹癒せもできずにいた者達は、庸之助の不幸をほんとに小気味よくほか思っていないことは、浩に不快なやがては、恐しいという感じを起させた。抵抗力のないものに対して、どこまでも、自分等の力を振りまわし、威張り、縮み上らせたがっているらしいのが、厭《いや》であった。雇人が勤勉であることを希望しながら、一種の雇人根性を当然なものとして扱いつけている、店の先輩達は、庸之助が去るときまで持続した、忠実な態度を、そのまま無邪気にうけ入れられないらしかった。こうなると、彼が正直で、よく働く若い者であったという、普通ならば、賞《ほ》めらるべき経歴まで、悪罵の種にほか
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