どちらも万一のことなら、出来るだけ明るい方面を見て進むべきであるのは、考えとしては解っている。けれども、気が狂ってしまった自分の姿を想像すると、静まったはずの心もとかく乱された。苦しくならずにおられなかったのである。
 今まで無意識に過ぎていたいろいろの精神作用――例えば人なみより強いと思われる想像力が突拍子もない幻影を見ること、ゴム風船を危かしくてふくらがせないような心持――が、皆病的ではないのかと案じられ始める。今にも微細な頭の機関が、コトリと調子を脱してしまいはすまいかと思われたりして、暫くの間浩は、非常に神経過敏にされていた。夜も、急に不安に襲われて飛び起きたきり、眠られないようなことさえあったけれども、日常の、厭でも応でも頭脳を秩序立てさせる事務が、いつとはなし自然にそれ等のことを恢復させた。
 日を経るままに、かなり冷静に考えられて来るようになると、或る程度まで、精神的の訓練を積んでいれば、多少の遺伝的精神欠陥も、補って行けるものであることが解って来た。
「生れた以上は、生きている以上は、その間だけ雄々しく過さねばならぬ。辛かろうが、悲しかろうが俺は堪える!」
 浩は、このごろしばしば彼《あ》の「気」を感じた。感激の涙に洗われては、彼の心が引き立てられた。そして、ほんとうに自分の運命を知って、立派に遣るだけのことは遣りとげた男として、自分のことを想うと、すべての苦痛を堪えるに十分な勇気が強く内心に燃え立ったのである。
 それから四五日立った或る晩、浩は外出したついでに、庸之助に会うつもりで――交叉点へ行ってみた。いつもいる辺へ行ってみたが姿がない。あちらこちら捜しても見当らないうちに、時間もおそくなりして、そのときは已むを得ず帰って来たものの、彼は妙に心配であった。病気なのじゃああるまいかと思ってみたり、何か電車のまちがいがあったのではないかとまで思った。けれども、訊いてみるところもなく、自分の暇もないので、思いながら二三日費して、或る晩また行ってみた。そのときはもう、見えないどころではなく、株でも譲られたらしい一人の老人が、
「ア夕刊、ア夕刊!」
と小さく叫びながら、淋しげに動きもせず鈴を鳴らしていた。
 失望しながら浩はその爺に訊いてみたが、解らない。
「お前さん、今時の若い者が……クフン、クフン、いつまで夕刊売りをしていますかい。大方どこぞの職人に
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