ろで、ハトロン紙の隅で計算をしては物指で作図をしている。テーブルの上へ拡げた紙へ胸ごとのしかかる姿勢で好子はおだやかに云った
「山田は時々戦死するかもしれないよと云うのよ。そんなとき、私、それはそうねと云って、それでもやっぱり何か確《しっか》りしたものを二人の間に感じて落着いていられるようになりたいと思うわ」
 やがて小枝子が、寒いなかをいそいで歩いた薄赤い溌溂とした顔でやって来た。
「御免なさい、おくれて。出征の人で電車がこんでこんで……」
 事務員らしいてきぱきさで、小枝子はすぐ仕事机の隅の風呂敷包みをひろげ、三尺の押入れを衣裳箪笥まがいにしたところに吊ってある縫いかけのスーツの上着を出した。小枝子が来るようになってもう一年以上経った。事務員では何年つとめていても技術がつかない。その自動車会社がしっかりしているので目前の月給は悪くないのであったが、小枝子は或る時不図そのことに気がつくと不安になって、新劇の或る女優の後援会で知りあった多喜子のところへ洋裁を習いに来はじめたのであった。今では、ひとのものも縫えるところまで腕がついているのである。
 独身で勤め人の小枝子が加わると、話題もおのずからひろがって、三人の女は手や足先を動かしながら、その後援会に二人が加わっている女優の演じた田舎の庄屋のおかみさんが粋すぎたなどという話も出た。仕上げミシンの急所のところで、多喜子が、
「あ、ちょっと、そこはこうした方がいいんじゃないかしら」
 自分でミシンを踏みかけたら、小枝子が、
「私、下ふみますから……」
 多喜子を軽く押しのけるようにした。
「あら。大丈夫なのよ、今は。自分の仕事だってしている位なんですもの」
「ええ、でも。今度は本当にうまくお生みんならなけりゃいけないんですもの」
 何か思いがけなかったような女同士の温い心づかいが小枝子の声や身ぶりの中に感じられて、多喜子は却って言葉がつまった。去年初めて姙娠したとき、多喜子は自分の健康に自信をもちすぎていて、テニスをしたり自転車にのったりしたために流産をした。小枝子はそのことをさしているのであった。
 一仕事すんだくつろぎで番茶をのんでいると小枝子が、
「きょうの『女の言葉』よみました?」
と二人に向ってきいた。
「朝日のでしょう? まだ見なかったわ、何か出ているの?」
「ある女のひとが投書しているんですけれどね、電車のなかで私たちみたいな女がドストイェフスキーみたいな厚いむずかしいものなんかをよんでいるのを見かけるが、果して彼女達はどこまで理解してよんでいるのだろう、って云うんです。電車の中なんかでは軽い雑誌とかパンフレットでもよむべきだって、その女のひとは云うんです」
「何てわからないんだろう! そのひと」多喜子が、怒ったように小枝子に振向いて訊いた。
「生意気だって云うの?」
「さあ。――とにかく机に向わなけりゃドストイェフスキーなんぞわからないって云うんでしょう」
「変なのね、私たち誰だって電車の中でよんだ学課以外の本のおかげで、どうやら読書力がついたんだわ」
「そのひとには、往復の電車で本をよめるというのがどんなに勤めているもののよろこびと慰安だか分ってないんですのね、きっと」
 いくらか難詰の声で小枝子が云った。そして、
「何しろ、現にこういうのがあるんですからね」
 自分のメリンス包の下にカヴァをかけてもっている大版の「緋文字」をちらりと見せて小枝子はユーモラスに首をすくめて笑った。
「何だか苦しかった。どっかに今朝の『女の言葉』を見た人がいて、ははん、あれだな、なんて見られているんじゃないかと思って」
「まさか!」笑い声の中から、小枝子が、
「現実に、ひる間つとめて家へかえれば疲れているんですからね」と云った。
「机にきちんと向わなければ読めないんだったら、私たちのようにして暮しているものは結局一冊の本だってよめやしないと云うことになるんです」
 顔の内側に明るく燃え立っているものがあるような表情で小枝子はそれを云うのであった。
 多喜子たちが卒業した女学校の専門部で文明史を教えていた教師の一人が、イタリーの方へ交換教授のようにして行くことになり、その送別会があった。出席した同級の幾人かは、どちらかというと多喜子のように友達に会いたい方が主で、こっそりこちらのテーブルの端で、
「私戸田先生イタリー語がお出来んなるなんてちっとも知らなかったわ」
「日本語を教えにいらっしゃるんだって。だからイタリー語は出来なくたっていいんでしょう」
 そんなことを、凡庸であった教授ぶりへの感想をもこめて囁きあっている連中がある。形式ばった茶話会がくずれてから、多喜子はヴェランダのところで煙草をすっている桃子のそばへよって行った。
「お嫂さん、小包で送ったりして、何とか云ってらっしゃらなかった?」
「平気よ。――きのうだか早速着て出かけたわ」
 多喜子は、ちょっと躊躇していたが、やがて、
「実は私、こないだのあの方たちの話、余り妙な気がして……」
と云った。
「私の仕立屋さんとしての面でだけ受け切れないようなところがあって」
と苦笑した。桃子は、とっさに何のことか見当がつきかねる風であったが、
「ああ」と、軽くうなずいて、
「あのひと達ああなのよ」あっさり煙草の灰をはたいた。
「そう云ってしまえばそれっきりみたいなものだけれどさ。――私桃子さんの生活が、やっぱりああいう空気の中にあるんだと思うと、それでいいのかしらって気になるわよ」
「大丈夫よ、原さんたら!――相変らずねえ」
 どこか微《かすか》に誇張されたところのある快活さで桃子は陽気に多喜子の背中をたたいた。
「私は私よ。お互があれで幸福なんだから、はたでかれこれ云うに及ばないのよ」
 私は私と桃子がいう、その気持の内容がはっきりせず、謂わばそんなに手際よく自分だけ複雑な生活の中で別者のように云っていられる心持が多喜子には納得ゆかないのであった。桃子のそういう態度は大変怜悧なようで、その実自分の心持を見守る手数をどこかで省いているか、投げているかのように感じられるのである。
 音楽も抜群であるし、絵をかかせればやはり目をひくだけの才気を示し、人の心の動きを理解する力も平凡ではないのに、桃子にはとことんの処へ行くとすらっと流れてしまうものがあった。一本気なところのなさが、桃子のいろいろの才能をも、つまりはちゃんと実らせない原因のようであるし、多喜子はそのことをもやっぱり桃子の毎日の境遇ときりはなして見ることは出来ないと思うのであった。
 頭脳の明敏な愛嬌にほんのぽっちり面倒臭さを露わに示したうわて[#「うわて」に傍点]な親密さで、桃子は、
「さ、あなたはどっちへ帰るの? きょうはあなたの護衛の騎士になってあげるわよ」
「ありがとう。でもきょうはいいわ、五時に日比谷で原に会うの」
「ハハア」桃子は抑揚をつけてそう云いながら大きく顎をひいて芝居がかりの合点をすると、手にもっていたベレーを振って、シラノ・ド・ベルジュラックが舞台でやるような挨拶をした。
「じゃ私さっさと消えるわよ、さよなら」
 ヴェランダの降口まで足早に去って、桃子はそこからもう一度こっちへ顔をふり向け、腹立ちより寥《さび》しい気分で遠ざかってゆくその姿を見送っていた多喜子に向って、手をふった。
 シモーヌ・シモンがディアンヌという裏町の娘に扮し、ジェームス・スチュアートが道路掃除夫のチーコになっている「第七天国」という映画も、バーバラ・スタンウィックの出演しているもう一つのも、どっちも背景に欧州大戦時代をとりいれた作品であった。多喜子は並んでいる参吉に、
「何だか古くさいわね」と囁いた。
「うん」
 場内が明るくなって、間奏楽の響いているとき参吉は、
「変な工合に現代の空気を反映してるみたいな作品だな」
と云った。
 丁度燈火管制の晩であった。二人は市電の或る終点で降りて、一斉に街燈が消され、月光に家並を照らし出されている通りを家まで歩いた。
 ふだん街の面をぎらつかせているネオンライトや装飾燈が無く、中天から月の明りを受けて水の底に沈んだような街筋を行くと、思いもかけない家と家との庇合いから黒く物干が聳えて見えたり、いつもとは違う生活の印象的な風景である。とある坂の途中に近頃開拓された分譲地のところへ来ると、彼等は思わずどっちからともなくそこへ立ち止った。
「何て感じでしょう!」
 截りたての石で直線に畳まれた新しい石垣の層々の面に隈なく月が灌《そそ》いでいて、柔かい土の平らな湿った黒さ、樹木の濃淡ある陰翳が、燦く石面の白さと調和して、最も鋭敏な|黒・白《ブラック・アンド・ホワイト》の版画の効果で現れている。
 多喜子は参吉の腕をじっと自分の胸にひきよせて、息をのむようにこの冷たい、荒い、夜景の美しさに見とれた。
「思い出すわ、私。――ほら、私たちが一緒になって間もなく、大塚の公園へ行ったとき、何かの工事で、やっぱり大きな石がちらかっているところを上から月が照していたことがあったでしょう?」
 多喜子は、こんな夜を参吉と歩いて行く心持を足から、眼から、円い輪廓を示し出している体じゅうから味わいつくそうとするようであった。
「おい、大丈夫かい? 月になんか憑かれたって知らないよ」
「大丈夫よ、今度は自信があるんだから」
 家の近くの横通りに曲ると、暫くだまって歩いていた参吉が、腕によっている多喜子の手を自分のもう一方の手で持ち添えて、もっと深くかけさせながら、静かに云った。
「――なるたけ俺がよばれないうちに生んじゃえよ、ね」
 もっと路が狭くなって、はずれた石の溝蓋《どぶぶた》などがあるところへ来ると、参吉がそんなものを用意しているとは思ってもいなかった懐中電燈を時々つけて、月光が樹の枝々で遮られている多喜子の足元を照らしてやった。



底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第五巻」河出書房
   1951(昭和26)年5月発行
初出:「新女苑」
   1938(昭和13)年1月号
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年4月22日作成
2003年9月21日修正
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