ナというその姉のところへ、出入りするようになった。フィリッポフの万端が庶民風なのにくらべると、ワーリャと呼ばれているその人の生活は、伸子に、ロシアの首府がペテルブルグと呼ばれていた時代の知識人の空気を思いやらせた。小石川の閑静な高台のその家の客間は、やはりせまい日本座敷を洋風につかっているのであったが、電燈には絹のシェードがかけられて、ふすまぎわにどっしりした新しくない安楽椅子が置いてあった。そこは、黒ずくめの服装の堂々とした母夫人の場所で、ワーリャを訪ねて来る素子や伸子なども母夫人は家の客としてもてなし、伸子とは英語で話した。
ワーリャ自身は画家であった。栗色の厚いやわらかい髪をおかっぱにして、眉まで前髪が切り下げられている。見事な二つの茶色の瞳だった。小柄だが、肉づきのしっかりしたワーリャの顔だちには、あたたかい深みがあった。話していて、ちっとも外国の婦人という気がしなかった。ドイツのひとを良人にして、幸福に生活していたのに死に別れたという話もきいた。ワーリャと素子とが、二階の書斎へ行って調べものをして来る間、伸子は客間に母夫人と残っていた。ロシアの音楽やオペラの話をするとき、年とった母夫人のいかめしい顔に生気がよみがえって、まるで昨夜、その華やかな棧敷《さじき》席にいたかのようだった。日本にも数年前にアンナ・パヴロバが来て、伸子は「瀕死の白鳥」の美しさに感銘されていた。私はもう二度とロシアへは帰らないでしょう。でも、ロシアの冬と音楽と舞踊は一生恋しく思うでしょうよ。母夫人は、ロシア風に煮たジャムをすすめながら、伸子にそう述懐した。
フィリッポフ夫婦の生活やワーリャの家の人たちは、伸子に、昔から今へ生きているロシアの社会のひとこまを見せるようだった。亡命して来ていて、いわゆる白系露人といわれるそれらの人たちは、いいあわせて一九一七年前後のことは話題にしなかった。それからのちのロシアの社会や芸術の変化についても、独特な態度をもっていて、その頃日本にも伝えられて来ているルナチャルスキーとかメイエルホリドとかいう名は母夫人の話の中には決して出てこなかった。チェホフの芝居がそのまま生きているようなそれらの人々の生活気分と風習は、伸子に、これまでの文学で親しんだロシアを身近く感じさせると同時に、新しくなっている今のロシアはどう違うのだろうかと好奇心をもたせた。蕗子が、ロシア語を習いに来ることになったとき、素子は、どうせ教えるのだから、と伸子にも勉強をすすめたのであったが、伸子が教科書を一緒に買ってもらった気持には、ロシアにひかれるものがあったのだった。
稽古がすんだ部屋へ伸子がお茶をもって行くと、素子がいつもの赤く透きとおるパイプをくわえながら、
「なるほどね、そういえば本当にそうだ」
面白そうに笑った。
「なんなの?」
「浅原さんがね、ワーリャさんの眼は、ほかの外国人の眼とちがって、じっと見ていても変になって来ない、っていうのさ」
「変になって来るって……」
伸子はよく意味がのみこめなくて、
「どういう風に?」
ときいた。蕗子は、ふっくりした小さい口元でなかば笑いながら、
「あんまり碧い眼を見ているうちに、段々その人が何を考えているのか分らないようになるでしょう? 溶けるみたいになって。でも、この間はじめてお目にかかったワーリャさんの眼は私たちの目とあまりちがわないみたいで、わけがわかったから」
「本当に! そういえば、ミス・ドリスだって、眼だけ見つめていたら、何がなんだかわからなくなって来るわ」
ミス・ドリスは蕗子のいる専門学校の英語の女教師で、人望があった。その人は、黄色っぽい髪に水色がかった菫《すみれ》色の瞳をしていた。
「フィリッポフさんの眼だって、そうだわ」
「あれゃ、色のせいじゃない」
断定的に素子がいったので、蕗子も伸子も笑い出した。
「あの人は、人生そのものが、あんな風なのさ」
そのとき、玄関で、
「ごめんなさい」
という男の声がした。
伸子が出て行ってみると、たたきのところに立っているのは男と女と、二人の客であった。
「やあ……」
テニス帽をぬぐ竹村英三に、伸子は、
「……御一緒?」
ときいた。女の客はその問いにあわてたように、
「いいえ。あの蕗子さんがあがっておりましょうか」
自分が竹村英三のつれでないことを明瞭にした。その声をききつけて、
「おそかったのね」
蕗子が出て来た。
「おお、おや。じゃあダブったんですね。門のところでおちあったんだけれど……」
そう云って改めて若い女客を見た竹村に、素子が座敷から、
「竹村さん、一寸八畳の方にあがっていてくれませんか」
と声をかけた。
蕗子の友達は、就職の相談に来たのであった。吉川という、その瘠せぎすの娘は、蕗子と同じ学校の英文科を去年卒業
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