て、そこへ移った。いくらうちで養生するようにといっても、みつ[#「みつ」に傍点]はそれをことわって、氷問屋の二階へ行った。
 二三日たってある午後、伸子はそこへみつ[#「みつ」に傍点]を見舞に行った。みつ[#「みつ」に傍点]は、友達と二人でかりている、意外にひろい、和洋折衷の室の真中に床をとってねていた。伸子が、ドアをあけて、三尺ばかりの下駄ぬぎに立ったとき、みつ[#「みつ」に傍点]は、
「だあれ」
と割合元気な声でききながら、枕の上から頭をもたげた。そして自分のかけぶとんのふくらがりごしに、立っている伸子を認めると、
「アラ……」
 伸子が、自分のほかになにかいるのかとおどろいてうしろを見かえったほど、びっくりした声をあげて頭を枕の上におとした。
「入ってもいい?」
 返事がないのでそのままそっと入って床のわきへゆくと、みつ[#「みつ」に傍点]は、すっぽり頭からかけぶとんをかぶってしまった。伸子は、自分が佃のうちの細君であるということからみつ[#「みつ」に傍点]が遠慮するのかと思った。かけぶとんをかぶってしまったみつ[#「みつ」に傍点]に、伸子は気軽な冗談をいったり、慰めたりしたけれども、みつ[#「みつ」に傍点]はかけぶとんから顔を出さず、しまいに、ふとんの中で泣いているのがわかった。伸子には、みつ[#「みつ」に傍点]の激しい感情の動きの理由がわからなかった。妻である伸子のいない間、みつ[#「みつ」に傍点]にばかり苦労をかけて、いまさら慰めてくれても仕方がない。みつ[#「みつ」に傍点]にそう思われているのかと思い、伸子は途方にくれた心持のまま、蒲団の下に見舞の包みをさし入れて、かえった。あれは、本当はどういうことだったのだろう? みつ[#「みつ」に傍点]を見舞いに行ったことや、みつ[#「みつ」に傍点]の不思議な亢奮について佃に話したとき、佃は例のとおり一言、病気で亢奮しているのでしょうといったきりだった。間もなく、伸子はまたその生活に耐えなくて、もがきはじめ、そして最後の逃げ出しをした。そんなことがあったのは、すべて四年もまえのことだった。氷問屋の青塗りの露台は秋日にてらされて今もあすこに在り、佃はあすこのうなぎ屋の裏に別の妻と住んでおり、そこには子供がい、自分は、外国へ行こうとしている。
 自動車は、江戸川の通りから豊川町の高台へのぼる大きい坂にさしかかった。クッションに頭をもたせかけたまま、いつかうつらうつらしたらしい素子が、
「どのへんだい?」
 上体をおこして、窓の外をみた。そして、
「もうじきだ」
 またクッションにもたれこんだ。
 伸子は、目的のところが近づくにつれてまた段々遠方へ出発する前のあわただしい心持になって来た。そして、和一郎にたのまれたことは、忘れずあしたでも行ったとき多計代に話しておかなければならない、と思った。おととい動坂へ行ったとき、和一郎は出会いがしらに伸子を廊下でつかまえて、人気のない客間につれこんだ。そして灯もつけず、椅子と椅子との間に立ったまま、自分はどうしても従妹の小枝と結婚する。多計代たちはきっと反対だろう。どんなに反対したって、譲らないから、そのことを、伸子が行ってしまう前多計代に予告しておいてくれというのだった。
「その決心――かわりようがない?」
 伸子はしばらくだまっていた後、しずかにききかえした。伸子は血族の結婚には不安を感じるのであった。
「かわらない!」
 伸子の不賛成をぼんやり感じた和一郎は、にらむように姉に目をすえながら、低い熱い声でくりかえした。
「僕の命がある間は、このこころもち、変えようないんだ」
 伸子とすれば、それをそのまま多計代に告げておくしかなかった。問題を根本からこねかえすためには、もう時間のゆとりがなかった。伸子は、あと四五日で東京を立たなければならず、大型のハンドバッグの中には、トゥリスト・ビューローで買った東京モスクワ間の切符が入っているのだった。つづけて伸子の心に、保のいったことが思い出された。やっぱりおととい、伸子は手まわりの荷物をつめた大小のスーツ・ケースと一緒に、本をつめた行李を二つタクシーで動坂へ運んだ。その行李にはもしかいることがあるかと思って、ビール箱につめてしまわなかった文学書が入っていた。伸子が、その行李を、中玄関横の板じきにおいているところへ、保が出て来た。伸子は、
「あら、丁度よかった」
 いつもの単純な調子でいくらか一人のみこみに、
「この行李、保さんあずかってよ」
といった。
「もしかしたらあとから送ってほしい本を入れてあるの。たのむわね」
 どうしたのか保は、そのときすぐ返事をしなかった。伸子はかさねて、
「ね、おねがい」
といった。すると保は、なんとなくその行李の繩に手をかけ、重みでもはかるように背を曲げて下を向い
前へ 次へ
全101ページ中100ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング