なり、マッチをすって、タバコへ火をつけた。
旅券の裏書ができれば、だいたい一ヵ月ぐらいのうちに出発しなければならない規定だった。伸子たちの旅行準備は、トランクを買うことから旅行のための服装の仕度まで俄に現実のこととしてせわしくなりはじめた。毎土曜日の午後やっていたロシア語勉強も、二人が大使館へ行った翌日で、おしまいにすることになった。素子は、課業をはじめる前いつもどおり帳面と本とを並べている浅原蕗子に、
「浅原さんいよいよきょうでおしまいですよ。ヴィザが一週間位のうちに出来るらしいから」
といった。
「ほんとですか」
蕗子は、いつものおとなしい声はそのまま、眼を大きくするような表情をした。そしてもう一度、
「ほんとですか」
と、念をおすように、同じ長椅子に並んでかけている伸子をかえりみた。
「こんどは、たしかそうよ」
伸子は、きのう自分たち二人がパルヴィン博士のところでどんなにのどのかわくような思いをしたか、ということを珍しい夫婦のくみあわせと一緒に話した。
「そうですか、では、たしかでしょうね」
蕗子は分別らしくきいていた表情を次第にゆるめて、もちまえのゆったりした善良な顔になり、
「いいこと!」
十分の羨望をあらわして、伸子の肩へ自分の肩をうちあてるようにした。
「でも――どういうことになるのかしら」
伸子は、うれしさとあてどなさのまじった顔つきでいった。
「なにしろ、これじゃあね」
草色の表紙を開かれているベルリッツの「外国人のためのロシア語」は、そこに「停車場で」という見出しの頁をあけ、われわれは、赤帽をよばなければなりません、というような単純なことを教えているのであった。
「ともかく、いっていらっしゃいませ」
首をかしげた蕗子の、ぽってりとして若い顔の上を、ほほ笑みと涙とが瞬間に交錯して走りすぎた。
「二三年でしょう?――そのうちには、わたしもしっかり勉強して、役に立つようになっていますからね」
蕗子は、素子が勉強した大学の露文科へ入学することにきまっていた。
「あなたは心配ないさ。それだけ真面目にやっていれば、大丈夫ものになりますよ、ワーリャさんも熱心だってほめているもの」
「…………」
蕗子は、伸子たちがいなくなってからの自分の生活の思いにとらえられたように、細い青桐の葉が茶色になっている隣家の生垣の方へ目をやっていたが、小声のひとりごとのように、
「ロシア語ばかりじゃあなくね」
とつぶやいた。うっとりした唇からもれたようなその言葉の調子に伸子の心がひかされた。
「なにをしようというの? ロシア語のほかに――」
蕗子は急に目をさまされたような様子でしばらく伸子をみつめた。そして、また人なつこい小声で、
「いろいろあるでしょう?」
小首をかしげてそういった。しかしそれぎり、気をかえたらしく蕗子ははっきり坐り直した口調になって、
「わたしにどんなお手伝いができるでしょうか」
素子にきいた。
「おっしゃって下さい。出来ることでしたらなんでもよろこんでいたしますから」
伸子たちはすぐにも、家の始末にとりかからなければならなかった。それには、まず本のかたづけが一仕事であった。
「こんどは、ごく信用の出来る人だけにたのみますよ。この前ここへこして来るときみたいに、あんな大切な本とられたりしちゃたまりゃしない」
老松町からこの郊外の家へ越して来るとき、一二度遊びに来た学生が手伝った。その青年がかたづけながらひろげて見ていたモスクワ芸術座の立派な写真帖が、あとからどうさがしても見えなくなっていた。そして、その学生は、もうそれきり素子のところへ出入りしなくなった。
課業が終ってから、素子は、
「いそがないんなら、夕飯をたべていらっしゃい」
と蕗子をさそった。
「あなたが使うようにのこしておく本なんか、そろそろ選んでおかなけれゃ。こんなときは、あとへゆくほどごたつきますからね」
夕飯のできるまでと、伸子は、いつも電話をかけている停留場わきの酒屋へ出かけた。そして、本をつめて、動坂のうちの土蔵にあずかって貰うためのビールのあき箱を、十個ぐらい註文して来た。帰ってみると、ロシア語関係の辞典類をすっかりひとまとめにして積み上げた卓の前に、素子と蕗子が一服していた。入ってゆく伸子を見上げて、
「こまっちゃったよ、ぶこちゃん」
素子が、辞典のつみ重ねを目でさした。
「――これだけで一荷物だ」
「ダーリのようなものは、かえってむこうではいらないんじゃないでしょうか」
そういう蕗子の注意で、素子は大判の幾冊もある百科辞典風の大辞書をとりのけた。
「ぶこちゃんの本は、どの位になるかい」
「さあ」
伸子は、まだ揃えてなかった。歴史の年表。日本の辞典。簡単な日本と世界の文学史。そんなものの必要はすぐわかった。け
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