ら、
「それゃそうでなくちゃ、伸子が困りますよ」
と云った。
「あのひとはロシア語が専門なんだろう」
「ええ。吉見さんは事務所の方へ伺いますって。よろしくって……」
多計代は、黙って考えていたが、
「まあ、伸ちゃんも、そうやって自分の力で行けるというなら、どこへ行くのも御自由だし、いろいろのところへ行ってみるのもためになることなんだろう。それゃ結構だけれどもね……」
一転して、多計代は事務的な調子で、裏書について、伸子が父に求めている援助の内容をきいた。
「なるほどね、それで大分話がわかってきた……なんだろう? その裏書のことでは、吉見さんの分もいるんだろう? どうせ伸ちゃんのことだから……」
「両方出来なくちゃ意味がないわけよね」
「お前、吉見ってひとの責任まで負えるのかい? あとで困ることになりゃしないのかい?」
「困るって?――」
「吉見なんていったって東京じゅうに知っているものなんざ一人もありゃしませんよ」
吉見素子が、伸子の旅費も出来たら自分で工夫しようとしていたと知ったら、多計代はそれにたいしてなんというつもりだろう。伸子は、腹のたつ気持を抑えたぎごちない低い声で、
「お母様の世間だけが、世間のすべてでもなさそうよ」
と云った。
「お金のことでいうんなら、吉見さんのうちの方がよっぽどお金持かもしれないわ、吉見さんは自分のお金で行けるんだから」
「なにもお金のことばかりいってやしませんよ」
多計代は、自分の息子や娘の友人にたいしていつも警戒的で、下目に見る習慣があった。さもなければ、保の友人の東大路の場合のように、何かの偶然で有名なその家族の名前に盲信した。だから、和一郎の友人にしろ、保の友達にしろ、その年頃の若い者らしく溌剌と自由で、まともなつき合は佐々の家庭のなかまでひろがらず、例外のように出入りしつづける若者は、多計代のそういう態度に反撥しないような人柄だった。そういうことに潜んでいる和一郎や保にとっての人生的な危険を、多計代は全く気づこうとしないのであった。佃がどういう性格であったにしろ、多計代からこうむった侮辱は度をこした。そのことのために、伸子は佃を気の毒に思わずにいられなくて、自分が妻として佃にたいして抱く苦しさの解決さえもかえってのばしのばしした。
「お母様、ほんとにいつになったら、自分の娘を一人前と思えるのかしら……友達を信じないってことは、娘を信じないことなのに――」
多計代が、いいつのろうとする機先を制して泰造が、
「いいじゃないか、多計代。よろこんでやって、いいじゃないか」
といった。
「あんな小さい赤ん坊だった伸子が、こうやって一人で外国へまで行くようになったんだ」
多計代は、その言葉で感傷を動かされ、しばらく黙った。
「それゃ、わたしだって、よろこんでいるんですよ。それにしてもね」
「吉見、だろう。そう拘泥するもんじゃありません。お前だって伸子一人遠くへやるより、ああやって一緒のひとがいる方が、どんなに安心だかしれないじゃないか」
「…………」
多計代の釈然としない理由は、伸子によくわかった。多計代の心には、この旅行についても素子が伸子をどこかで利用しているにちがいない、と思いこんでいるのだ。
伸子のために、便宜があればそれにこしたことはないが、吉見素子がそれにあやかることは不本意だが、大目にみておくという表情を、ありありと顔にうかべている多計代に玄関まで送られて、翌日伸子は父と藤堂駿平の邸へ出かけた。
麻布の天文台のそばで門の石塀のそこまで葉を落した桜の枝がさし出ている。三人の取りつぎがどれも男ばかりの案内で、応接間にとおされた。近代風の洋式客間で、明快な色調の広い部屋だのに、一方の壁に床の間めいた高いところがこしらえてあって、そこに日本画のかけものと、紫檀の板の上に香炉がおかれている。伸子は、政治家というものの客間を珍しく見まわした。じき、
「やあ」
といって、和服姿にスリッパをはいた藤堂駿平が現れた。
「ようこそ」
はじめて会う伸子に会釈した。有名な鼻眼鏡の黒リボンと、くさび形のあご髯の間から見えている藤堂駿平の皮膚は白くて、濶達な身ごなしだった。
泰造が、全く友人同士のようでありながら、どこか微妙なニュアンスで自分との間に差別をおいている話しかたで用件を説明した。
「ほう。なるほど。――それぐらいは、むずかしいことでもなさそうだ。ようござんす」
藤堂駿平はわきにあるベルをおした。伸子たちをとりついだ少年が来た。
「今井君にちょっと」
秘書の一人らしい黒い背広の男が入って来て、丁寧に礼をしながら、そこにかけている泰造と伸子との方をひとわたり見、いそがず藤堂駿平のそばへよって行った。
「このお嬢さんが、お友達と二人でソヴェトへ行かれるんだそうだ。それについて
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