ている伸子に向っていった。
「無理のないところがあるのかもしれないんだ。むこうとすれば、そもそも日本というものにたいしては用心ぶかくなるわけもあるだろうしさ」
 そういわれれば、伸子にもわかるところがあった。日本の政府は一九一七年からシベリアへ出兵して、ウランゲルやコルチャックとともに、ふるいロシアがソヴェトに変ってゆく道を妨害しつづけた。国交が回復したのは、伸子たちが老松町からその郊外の家へ引越して来た時分のことであった。そういう角度からみれば、伸子たちが通り一ぺんの手続で裏がきを求めて提出してある旅券が、何とはなし積極的になれない手にとりあげられ、うちかえして眺められているという状態も推察された。
「わたしたちの立場というものを、ありのまま出して、しかしやっぱり無いよりはましという風な紹介者があると一番具合がいいんだがねえ」
「そうだわ、もし紹介者がいるんなら、そういうのでなければいけないわ」
 伸子は、もとより自分の身辺にそういう外交上の響をもつような知人をもっていなかった。自然父の知友の間に物色するわけであったが、役所がきらいで民間の建築家になった佐々泰造が官僚の間にそういうときに便利な友人をもっているようにも思えない。考えまどっていて、伸子は、ふっと一つのことを思いあたった。
「ね、カラハンが来たときね、日本側の代表でいろいろやったの、藤堂駿平だった?」
「そうさ」
「――それだったら、もしかしたら何とかなるかもしれない」
 十年も昔、伸子の小説がはじめて雑誌にのせられたとき、それを読んでといって、少女だった伸子に一匹の反物をおくってくれた老婦人があった。同じ錦紗でも手にとってみるとしっとり重い上質で、大まかに麻の葉の紋柄が浮き出ていた。その布地は、ひどく伸子の気に入り、さっぱりした薄紫にそめて着た。あとで、それを黒にして、いまもその羽織は愛用している。その反物をくれたのは、藤堂駿平の母で、七十になっていても、本をよむのを日課にしているという老夫人だった。伸子は、その御礼のことで多計代といいあらそったのを覚えている。多計代は折角もらったものだから、着物にして着てよく似合うところを見せに行くべきだといい、伸子は、そんなことはいやだ、とあらそった。
「お母様、もしこの反物を、ほかのどっかのおばあさんがくれたとしても、やっぱりそうおっしゃる? 藤堂駿平が男爵でなくても、そんなにおっしゃる?」
 伸子は、
「そんなにむずかしいものなら、着ない」
 そう云って、本当にそれが仕立てあがった冬は着なかった。
 藤堂駿平と佐々泰造とは、公式なつき合いばかりでない交際があるらしいことも、伸子は思い出したのであった。
「わたし、ちょっときいて来てみる」
 伸子は、郊外電車の停留場のわきにある酒屋から、佐々の事務所に電話した。
 勢いこんでかえって来て、伸子はすぐに縁側にまわった。
「よかった! 何とか考えましょうって――今来るようにって……」
 多計代は東北の田舎からまだ帰っていず、父ひとりの動坂の家を思うと、伸子は、素子を誘ってゆくにいい折だと思った。
「一緒に行かない?」
 旅券のことについて父にたのむのは、伸子の分ばかりでなかった。素子も行って会えば、たのまれる父の気持もよかろう。伸子は、そう思ったのであった。
「さあ……」
 素子としても、同じように考えるらしく、行ってもわるくなさそうにしていたが、
「まあ、やめとこう」
 皮肉な苦笑を浮べた。
「お母さんの留守には来るんだね、なんていわれちゃ、ちょいと癪だからね」
 伸子たちが老松町の家に住んでいたとき一二度、それからこちらへ越して来てからも二度ばかり、多計代が訪ねて来たことがあった。和一郎をつれたり、つや子をつれたりして。そのときは、素子も仕事をやめて一行をもてなした。けれども、多計代は、一度も改まって娘と一緒に素子を動坂の家へよぶことはしていないのであった。
「わたしは、いずれお父さんの事務所へでも伺うから、よろしくいっておいとくれ」
 秋の夕暮れらしい渋谷の雑沓のなかを、伸子は気をせいて、二つの電車をのりかえ、家のある高台に向う坂道をのぼって行った。その横通りには、昔から屋敷の間にはさまって、日本橋の方に店をもっている有名な書籍文具店のインク製造工場があった。丁度そこがひけどきで、小さい銀杏がえしや束髪にした少女の女工たちが、伸子のゆく細い道を群れて来てすれちがった。昼ごろには、その細い道に向って開いた工場の門のよこてに、年よりのおでんや[#「おでんや」に傍点]が屋台車をひいて来て止っているのをよく見かけた。すると工場の中から、かたあげのある紺木綿の筒袖をきて、同じような紺木綿の前かけをかけた少女の女工が、てんでに皿や小鉢をもって、椎の大きい枝の下に店を出しているおでんや
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