けれども、それはどこまでもおぼろげにわかっただけだった。たとえば、自分が階級的に成長するということについて、具体的に何がどうなればよいのか、伸子にわからなかった。本には明瞭に示されている。小市民やインテリゲンツィアはプロレタリアの革命的陣営に参加して、はじめて自身を歴史の上に発展させることが出来るのだ、と。
 ロシアの歴史のなかでのこととしてみれば伸子にもそれはよくわかった。すでに沢山の人々がそういう風に生きた。けれども、日本で、自分のこととすると、伸子には見当がつかなかった。誰でもが革命家にならなければならないとしたら、そしてそれしか自分の生きる道がないとしたら……。伸子はこわかった。アナーキストだった大杉栄と伊藤野枝が甘粕という憲兵に、どんなにして虐殺されたかを思いおこして、こわかった。伸子は生きたいのだった。篠原蔵人が、リアリズムにある階級の区別についていっていることも、その本をよんで伸子にいくらかわかった。プロレタリアとしての立場で、その感情で現実をみるのだということはうなずけたが、でも、それは、伸子の毎日の暮しや書くものに、どうかかわって来るのだろう。無産派といわれる人々の間では、その理論を語っている篠原蔵人のような人々は特別で、大体労働者出身の作家か、貧乏の生活をしている作家でなければ、発言権をみとめられていないように、伸子の目にうつった。そして実際、伸子のかくものなどは、それらの人々から全く無視されていた。
 それらの人々に認められようと認められまいと、伸子は人間として、女としての自分がこの人生に発言したいものをもっているのを感じた。自分の生きかたを帳消しにする気がなかった。どっかで、何かの理窟にひっかかって止ってしまうつもりなら――それならどうしてあんな思いをして、追いすがる佃の顔をこの手でつきのけるようにして、あぶら汗でつめたくぬるついた佃の顔の感覚が、それをつきのけた自分の手のひらから今だに消えきっていないほどの思いをして、佃との生活をふりもぎって来たろう。
「わたしね、だからソヴェトへも行ってみようと思うの。そこで生きてみたいの。いいことも、わるいことも、みんなこの目でみて、このからだであじわいたいの」
 一方からは楽土のように語られ、一方からは悪魔の巣のように語られているソヴェト同盟のほんとの生活の日々のなかへ、自分の眼と心とで入って暮してみれば、そこの生活の実際がわかるだろうし、それにつれて自分というものやその生きかたもわかって来るだろうと期待するのであった。
「うまく説明出来ないけれど……わかる? 自分を砥石《といし》にかけてみたいの。だから、わたしロシア語なんか知らなくたっていいわ。そこで生きてみるんだもの……」
「それゃ、ぶこちゃんらしい」
 素子は、しばらく黙って考えていたが、
「どだい、君とわたしとは同じ行くにしろ目標はちがうんだからね」
 その点を、改めて自分たちにも明瞭にするというように素子はゆっくり云った。
「しかし、そうきまったらきまったで、早速動き出さなくちゃ」
「そうだわ、旅費もないんだもの……」
 実際的なテムポで云い出す素子にそう答えながら、伸子は、
「ああ、あ」
 長い溜息をついて、卓の上にさしかわした自分の腕へ頬をのせた。
「なんて、ひと仕事だったんでしょう」
「何が?――きまるまで?」
「だって、わたしたち、惰性だけで動くの本当にいやだったんだもの……あなたの方だけ、どんどんはかどって、わたしがそれでもまだわからなかったら、どうしようと思っていたんだもの」
「…………」
 素子は、再びその棗形の小麦色の顔を薄く染めた。そして、黙ったままつやのこもった視線で伸子を見た。そのつややかな眼は、伸子に同じ素子がこのあいだ自分を見た別の目を思いおこさせた。わたしは君にくわれるのはごめんだよ。そう云って伸子を見つめたときの素子の目つきを。それは暗く、一定のところからよせつけまいとするような色であった。伸子は、いま素子の眼をみたしている明るさと、あの暗さとの間にたたみこまれている微妙なこころのひだを感じた。伸子は笑いのかげにある口もとですこし意地わるくきいた。
「あなたは、どうきまりそうだと思っていた? どうきまったら一番いいと思っていた?」
 素子は黙ったまま新しいタバコに火をつけ、それをすった。
「結局、こうなるのが一番自然なきまりかたなんだろう……よかったさ」
「…………」
 伸子は、太平洋航路の大きな客船が、横浜の埠頭から次第次第に沖へむかってはなれて行ったときの光景を思いおこした。銅鑼《どら》が鳴り、渡りはしごがひき上げられ、音楽やテープの色どりのうちに、そろそろと巨大な客船は岸壁をはなれる。最初に、気もつかないほど細い藁や果物の皮などのういたきたない水の幅が岸壁と舷側との
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