ることは、まるで苦しさに耐える、というみたい……」
「だって、それは変えなけれゃうそよ」
伸子らしい一途さでいった。
「そういうのは決して、正常じゃないわ。決して正常であり得ないわ」
佃と暮して、もがき苦しんでいた間、伸子はどんなにしばしば、いまのり子が歎いたような歎きに呻いただろう。歎いても歎いても、そのことで歎きの原因はとりのぞかれなかった。
「佐々さんの場合はわかりますわ。――ですけれど、もし、正常にする可能性がどこにもなかったとしたら? どうすればいいのかしら……」
「…………」
「正常にするためには、もとからある生活を根柢《こんてい》からこわさなければならないとしたら――」
「だって――それは、はじめっからわかっていることじゃないの?」
「……実際にそれが不可能だとしたら? 男のひとに、その意志がないとしたら?」
そういうのり子のまぶたの色は鉛のように沈んだ。その名をきけば一部の人々には教養の守護者のように思われている人の生活の現実も、こういういきさつとなると、凡庸さも、不決断を理由づける卑屈さも、世間の多くの男の場合とその本質では大差ないように見える。伸子は自分もその気分に染んでいないこともない教養ごのみそのものに、なまなましい嫌悪を感じた。教養の選良のように見られている人に、こんなありふれた男女関係の混乱がある。しかも、これらの人々にはありふれた事件をありふれた事件として判断するものを、かえって嘲笑する傲慢さがある。情景のひとこまひとこまが、よしんば教養のニュアンスで複雑にされ、情趣で色どられているにしろ、社会で生きる男と女としてはこれまでの男くさい勝手をつらぬいて、むしろその弁護にだけ役立てられる教養というものに、伸子は唾棄を感じた。
とり乱すことが出来ないだけになお苦しそうなのり子は、そこに出ていたコップをとり上げて、氷のかけらの浮いた水をひとくちのんだ。そして、しばらくいいようを考えている風だったが、いきなり、
「父親をもたない子供が生れるということは罪悪でしょうか」
といった。いい終ったのり子の鉛色のまぶたがだんだんにあからんだ。その変化は、のり子の若い肉体と精神の全血行の逆流を語った。のり子のその顔つきは、こうしてそれをみているより自分の胸の上に抱き伏せてしまった方が、まだ楽だと伸子に思わせた。伸子は、自分を凝視しているのり子の眼に、ひとこと、ひとことをうちこめるようにいった。
「世間の習慣では、そういう子供はかわいそうね。でも、罪悪かしら――一人の女のひとがその子の母親となるようになった動機が罪悪といえるかしら――」
伸子にそうは思われなかった。
「でもね、当然母親になるはずの女の人と子供とを、そういう条件においておく男があれば、それは罪悪的だわ。子供が生れる生れないにかかわらず、よ。世間が、どうみる、みないに、かかわらず――そうでしょう?」
よくいいあらわせなくて、伸子はもどかしげに目ばたきした。
「そういう条件だのに、それなりずるずるに進行した全体の関係そのものが変よ――まして一方に、もうちゃんと出来上った家庭生活があったりすれば……」
いっているうちに自分にも少しずつ細部が明瞭になって来て、伸子は、
「その意味では女のひとにだって、同じだけ責任があるわけだわ、知らなかったのではないんだもの」
といった。
「愛なんて、ほんとに愛なはずだのに――紛糾や怨ではないはずなのに――妙ねえ。なぜ、こんなに、どこでもかしこでも愛はごたごただの苦しみだのなの? ほんとに、なぜ? 愛が苦しみだなんて――」
ほんとうに、伸子のまわりのどこに、愛の発露とはこうもあろうか、と、目を奪われる眺めがあるだろう。佃と自分とがからみあいもつれあって生きたあの姿。母と越智との空虚な、しかも力いっぱいの葛藤。そして、母と娘との感情においてさえも――。伸子はその中から自分をもぎはなすように、頭をふっていった。
「ね、勇気をふるってね。いやな苦しいいきさつの中から、一番ましな部分をつかまえるのよ。生れるものを堂々と生れさせるのよ。生むことを堂々と認めるのよ。父親は逃げた。それだって、その女のひとは子供を愛しているのだわ、そうでしょう? 愛はそのひとのものだわ、そうして、子供も……。子供には子供の人生を生かしてやるのよ」
のり子の、また鉛色にかえったまぶたの下から、とめどなく涙が溢れた。のり子は、涙を抑えていたハンカチーフを口にあてて、声を忍んで嗚咽しはじめた。伸子は座をはずした。
ほどたってから、伸子が新しくこしらえた飲みものをもって座敷へ戻って行こうとすると、のり子が、どうしたのか隣室の襖ぎわへ来て立っていた。
「――気もちがわるくなったの?」
おどろいて、伸子がたずねた。
「いいえ」
のり子は半分ぼうっとなっ
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