ろからは、畳の上にかがみかかった相川良之介の折目だった単衣羽織の背中から胴にかけてのもり上りしか見えなかった。
しばらくそちらを眺めていた主客が、おのずと卓の上へ顔をもどして、物をいいはじめるぐらいたっぷり手間がかかった。相川良之介は、本気でなにかかいているのだ。伸子は、画帖という風なものは、さらりと、そのときの興によってかかれるものと思っていたので、相川良之介の仕事に向ったようなうちこみ工合を心のうちにおどろいた。
出来たのは、その頃、相川良之介の絵として有名になっていた河童の図であった。背の高くやせた、しかし丈夫そうな脚をした河童が笹枝をかつぎ、左手に獲った魚を頬ざしにしてつるしてゆく姿が描かれた。我鬼と署名されている。
相川良之介は、だまってその画帖が人々の前をまわされるのを見ながら、煙草をくゆらしていた。一座の人々は、それが洗煉された態度であると見えて、格別、ほめもせず批評もしないで、しずかにまわして見た。相川良之介が、どうぞKaPPaと発音して下さい、という前書をつけて発表した「河童」という作品は、河童の国の出来ごとになぞらえて、警官の弁士中止! という叫びまで描かれた諷刺小説であった。心情の噴出による諷刺であるというよりも、相川良之介らしい、知的な諷刺であった。それは、伸子にちゃんと理解されない部分があったし、理解される部分にたいしては、そのビイドロの破片のように鋭くひらめく知性を、例によって懐疑した。
そのようにして、佐保子の画帖に河童図の描かれたのは二た夏ばかり昔のことであった。伸子は、自分がさしずにまかせて、いとどしく、という文章を書きうつさなければならなかったその宵の切ない心持を思い出すよりもしばしば、そして、その度に考えこむ気分に誘われながら、相川良之介が、あんなにむき[#「むき」に傍点]に、人目から画帖をかくして、描いていた姿を思いおこした。人々の視線の下に一筆一筆をさらして描くようなことをしなかったのは、いかにも相川良之介らしく思われた。それから、自分の描くものは、どれ一つにしろ最上の出来栄えであろうと欲する心持も。伸子は、何かの文章で相川良之介が、僕はあらゆる天才にならわんとするものなり、といっていたのを思った。画帖を人目からかくし、あんなに本気で一つの河童図をかいていた相川良之介の様子は、伸子にかえってそのひとのうちにある一途な、わき目をふらない気持を感じさせた。それは、伸子に好感をもたせるものであった。だのに、もし、伸子が何かの機会にその感想を彼につたえたとすると、相川良之介は、少くともそれにたいする返事としては、また伸子にとって真偽のわからないような逆説をはくであろう。普通のことばで物がいえないひと。そのために、軽蔑する自分のエピゴーネンからつきまとわれずにいられなかった人。偶像と教師になる愚劣さをしんから軽蔑して、いくつかの小説にそのこころもちをかいていながらも。――
伸子は自分の机のところへ、その朝の新聞をもって行って、ひとりで見ていた。新聞の写真の上に目をおとし、自分とほとんど同じ頃文学者として出発し、声名を博し、僅かの年長で生涯を断って逝ったひとのことを思いつめると、伸子は、また、刃の鈍い桑切庖丁のようなもので隈なくからだを刻まれるような苦しみを感じた。機智をつくし、知的な精緻をこらして自分の生活と文学とをもって来た相川良之介が、「ある旧友への手紙」で、こんなに淳朴に、若々しく、流露する心情を語っていることに、伸子は涙を抑えようとしても抑えかねた。「ある旧友への手紙」でだけはこう書くしかなかった相川良之介の人間としての一生にたいして恐怖と感動があった。どの写真も、相川良之介といえばその知的な風※[#「耒−人」、第3水準1−14−6]を標榜して、額におちかかっている髪や、敏感な口もとや、じっとこらされた眼に焦点をむけているのであるが、相川良之介の、やや上眼にこらされている瞳のうちには、知的で硬い自足したような辛辣さはちっともなかった。それは温和とはちがった柔軟さ、聰明というものの本質的なしなやかさでかがやいていた。憎らしく押しづよいものはどこにもなかった。写真のその眼を見て、中学生でも最後の思いには書くであろうような「僕は誰よりも見、愛し、且つ理解した。それだけ苦しみを感じたうちにも僕には満足である」という文章をくりかえして読んだとき、伸子は、相川良之介に代表された人の心というもののいじらしさにふるえるようになった。そして、丸めて口に当てたハンカチーフから声をもらして泣いた。
二十
大きな音をきいたあと、耳のなかが変にカーンとして、自分の声もひとの声もよく聴えないようになる。相川良之介の自殺を新聞で知ったあと、伸子は心理的にそういう状態に陥った。朝おきてか
前へ
次へ
全101ページ中67ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング