ゃ来ないよ」
「…………」
では、多計代は伸子が想像したよりも遙かに激しく行動した。越智をさけて前崎の家へ行き、そこで考えもまとめて来るのかと思っていた伸子の推察よりも、多計代の燃えかたはずっと強烈だった。伸子に、越智との結婚について話した、おそらく次の日かその次の日に多計代はまた越智に会ったにちがいない。多分、人のいなくなった午後のおそいがらんとした研究室で。――そういう建物の中のほこりっぽい無味乾燥な室で、華やかに装った多計代が、においと熱とを放散させながら、縁なし眼鏡を顔の上に光らせて今は臆病にしりごみしている越智に迫ってゆく光景を思いやると、伸子は涙がにじんだ。越智のおじけづきかたが、伸子にまざまざと感じられた。意外の重量が自分の体面の上にくずれかかって来たことにおびえながら、越智は多計代の素朴さ、むきさを侮蔑して考えたにきまっている。その表情が伸子に見えるようだった。越智が理想だといったシュタイン夫人は、十八世紀の小っぽけなワイマールで、調馬師の細君で、宰相であり文豪だったゲーテに恋着されていることを、夫妻ともどもの名誉と思う卑屈な宮廷婦女にすぎなかった。伝説は時になんと愚劣だろう。
多計代が、その途方もない真率さで、越智にいわせれば、おそらく粗野で、機略も年甲斐もない若さでひた迫りに越智に迫ったことを、伸子はよかったと思った。そこに、多計代の女としての威厳が感じられた。自分の生存の全重量をかけてみて、越智がそれをもちこたえられる男でなかったことが確かめられたことはよかった。けれども、母が、情熱が凝って焔となったようなつめよりかたで、ああおせば越智にこうはずされ、ここをおせばああとにげられ、ついに全く幻滅していったこころの過程を思いやると、伸子はからだがふるえた。自分のこの手のひらの下に容赦なく鳴る越智の顔がほしかった。そういう切迫した場合でも、瀑布のように自分の上におちかかる多計代の情熱を、支え切れず圧倒される人物の悲鳴でこたえる越智ではない。いつもの、あのよせ木細工の衒学と論議で、負けたと示さずに多計代を退かせたにちがいない。おそらく多計代の自尊心がそれ以上耐えられないように、身をかわしながら、……。だからいうのに。――胸いっぱいに渋く湧く涙をとおして、この七つの言葉が伸子の心じゅうに鳴った。
多計代はもうそれきり何もいわず、鏡台にレースの鏡かけをおろしている。ふっさりと大きい庇の前髪の下に、多計代の顔は堂々と沈静されていて、そのかげに無限の軽蔑がふんまえられているのが感じられた。
その午後、多計代は珍しく戸棚の前に坐って、息子たちの下着類をよりわけたり、雑巾に縫う布を見つけたりした。伸子はそのわきにくっついて見物していた。そういう家政のことをしている多計代の表情には、何ヵ月かの間、彼女にとって目に入って来なかった家の内の些細なことごとが、いま、はっきり見えて来ている、という風があった。丁寧に、真面目に、いつもより言葉すくなくシャツを畳んだり、布地をわきへどけたりしている。その母の様子には、伸子の心をうつものがあった。越智にたいして、苦しく燃えあがっていた多計代の憧れの焔は、おそらくは多計代として女の若さが自覚される最後の情熱のはためきであった。その不安な激しい生命のゆらぎは、越智の人間の小ささと、感情の冷やかさで哀れにうちくだかれた。けれども、こうして、堂々と軽蔑の上に落ちついた母を見ていると、伸子はやっぱり悲しかった。多計代のあんなに激しい、本気だった女としての動揺も、土台のところでは、決して全生活がそこにかけられているものではなかった。辛辣にいえば、物質の上でみち足り、妻として良人からその肉体もみたされている年配の有閑な夫人が、自分の生活に欠けているものに憧れてそれに敗れたことではないだろうか。もしそうでないなら、伸子には、母が、越智にたいする軽蔑ばかりをつよく示しているのがわからなかった。多計代の眼のなかに苦しさと歎きのないのが、伸子にせつなかった。年や境遇に矛盾するような女としての若さが、計らずもそれを最後と燃えたった。その自分の情に深い哀れを感じてもいないらしいのが、伸子をいたませた。越智が軽蔑される心情をもっていることは事実であるけれども、第三者の目は以前からそれをみていた。多計代は、自分の真情が侮蔑されて、はじめて越智の本質を見出したのだった。軽蔑すべきものに自分の女の心がそんなにも傾いたというその事実を、多計代はどんな風に自分の心の奥にうけとっているのだろうか。つきつめれば奥のふかい自分への失望と歎きを、越智への軽蔑によって支えているように思えて伸子はこわかった。まして、多計代が越智一人への軽蔑を多計代らしく敷衍《ふえん》して「男なんて」というとき、伸子は漠然と恐怖を感じた。伸子は佃とこ
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