をはじめたのであった。
 この二三年の伸子の生活のうつりかわりは、外からもわかりやすい変化であった。ひとこま、ひとこま、生活の情景ははっきり推移した。その間佐々の家も、思えばずいぶん変ったものだ。しかし、その変化は、大きい屋台の中で、いつとなし、あれやこれやの細目が変って行って、気がついてみれば、全体が元とちがってしまっていることにおどろかれる、そういう変りかたなのであった。
 佐々は健康で生活力の旺盛な、働きずきの男らしい恬淡《てんたん》さをもっていた。メディチの紋章のついた椅子も、珍重していながら、大切になでさすって、眺めるような味わいかたはしていなかった。伸子も来あわせてみんながその室でしゃべっているようなとき、泰造はちょっとその十五六世紀頃の椅子にかけてみたりした。
「昔の人間はよくこんな工合のわるい椅子で辛抱していたもんだね。これをみても進歩ということは大切ですよ」
 そういいながら、どういう細工によってか、ひじかけの先の円くなっている手前にくるくるとまわるようにはめられている繊細な輪細工を、乾いた軽い音をたててまわして遊んだ。ときによると、
「お父様のハムレットを見せて上げよう、アーヴィングの直伝だよ」
 どてらをぬいで片方の肩からななめにかけ、そのエックス・レッグスにかけて沈痛に片肱をつき額を抑えた。そして誰でも知っている“To be or not to be”というせりふをいった。丸まっちいからだの、禿げている頭の丸いハムレットが、紺の毛足袋の短い足を組みあわせ、血色のよい、髭のそりあとの見える東北人らしい顔を傾けて、To be or not to be と煩悶するのは、なんと滑稽なみものだったろう。伸子は手をうって笑った。
「オフェリアはいつ出て来るの? お父様、オフェリアを出してよ、わたし出るわよ」
と、ふざけた。
「あいにくだが、ここまでおそわったらアーヴィングのところへお客様が来ましたよ。オフェリアは出ずじまいさ」
「お父様ったら! でたらめばっかり!」
 多計代が長椅子にかけて、おかしそうに更にそれよりもいら立たしそうに白い足袋の爪先を細かく動かしながら非難した。
「お父様ったら、なんでもかんでも茶化しておしまいになる」
 悲壮な重々しい情熱を好む多計代には、ハムレットをそうやって遊ぶ泰造の気分や、それをよろこぶ娘の伸子の気分が、人生へのまじめな感情にそむいたものと感じられるのであった。
 関東の大震災の後、復興のために自動車の輸入税が一時廃止された。
「買うならこういう機会だね」
 遊びに行っていた伸子も、両親や弟たちに交って、いろいろの自動車会社から出されたカタログを見た。
「多計代のハイヤー代だけでも相当だし、俺はどんなに能率があがるかわからない……しかし、贅沢な車は駄目だよ。第一、門が入りゃしない」
 伸子の知らない幾晩かの相談の末、イギリスのビインが買われた。小型の黒い地味なビインにふさわしく、小柄で律気な機械工出の運転手の江田が通いで雇われた。江田は一風ある男で、はじめて来たとき、お仕着せは絶対にことわった。佐々のお古を頂きたい、と約束した。そして、お下りのハンティングをかぶって、毎朝八時というと、小柄の体をひどく悠然と運んで通って来るのであった。
 いま、竹垣のそとにホースをつかっている江田の姿を目にうかべ、伸子は、思わず一人笑いをした。父をなつかしむ笑いをもらした。泰造は米沢に生れて、イとエの発音がさかさになることがあった。字でかけばちゃんと書いたが、発音では逆になった。江田が運転手になったとき、佐々は伸子に、
「運転手が、いい男でよかった。イダっていうんだよ」
と教えた。伸子は井田というのだと思って、そうよんでいた。
 そしたら、あるとき、
「これを井田におやり」
と伸子にわたした祝儀袋の上に江田殿と書いてあるのを発見した。
「あら! お父様、エダじゃないの」
「そうですよ、イダだよ」
「――……」
 伸子は笑いくずれるように父の肩ごしに祝儀袋を見せた。
「これ、何ておよみになるの、お父様は……」
「イダさ」
 これはしばらく佐々の家の一つ話になった。とんちんかんなことがおこると、
「ホラ、イダだ」
と笑った。
 一つの家庭の歴史にとって、自動車が出来るということは、生活全体に深い影響があることだった。日本のように、どの家庭でも便利のためにフォード一台もっているのが普通というのでない国では、一台の自動車は、それがどんなに見栄えのしない小型のビインであろうとも、自家用車をもっていることであり、そのことは便利以上の何ごとかを、この社会で表現することなのであった。
 江田をイダ君と呼び、どっさり車の集っている場所で、江田がききわけやすいようにと特別のサイレン風の小さい呼子をふきながら、佐々
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