は、自分がそこにこれから住もうとは思わなかったが、佃にたいする最後の思いやりとして、その引越しを手伝った。引越しが終った日の夕方素子の家をたずねた伸子は、
「ああ、さわぎだった! 引越したの」
といいながら、坐った。
「引越し? だれが」
「わたしたちの家」
素子は、坐り直し、その二つの視線で伸子の顔をハッシとうつようにけわしく、
「だから、この間、いったでしょう。君に私の気持なんてわかりっこないんだ。馬鹿馬鹿しい!」
眼に涙を浮べた素子は、
「だから女なんていやだ!」
侮蔑と痛苦とをこめた声でいった。
素子の苦痛は伸子を畏縮させた。けれども、伸子のこころもちは、ぼうっと広く開いたままで、素子の切迫した激情の焦点に一致するようにしぼりが縮まなかった。そのことに気づいて伸子は一層素子にたいして気がひけた。
「君はよかれあしかれごく自然なひとさ。自然なだけ、ひどいめに会うのは私にきまってるんだ」
素子は伸子の方を見ないまま、
「いつだったか、いったろう? 私は、男が女を愛すように女を愛すたちだって。――あのとき、ぶこちゃんは、わかったようにあいづちうってたけれど、実際には、いまだってわかってなんかいやしないのさ。わからないのが、佐々伸子さ」
涙の粒が、素子の小麦色の頬をあとからあとからころがり落ちた。
「私に、ぶこちゃんの自然さがわかるのが、百年目だ」
伸子も泣いた。素子の苦しさがせつなく、自分が素子をそんなにせつない思いにさせた、それが苦しくて。――素子の手を自分の頬にもち添えて泣きながら、伸子は、それでもやっぱり自分の心が素子と同じ皿の上の同じ焔とはなっていないのを感じた。素子に誠実であろうとしている自分の心の偽わりなさは伸子にわかった。素子にもそれは通じている。それもわかった。しかし素子は、女はだからいやだ、とそんなに苦しむ。そのいやさを、伸子は自分の感情として自分に実感することが出来なかった。どっさりの黒い髪を頸の上につかね、小麦肌色の顔を苦しさに蒼ずまして伸子に向っておこる。その素子にわるい、と思う気もちばかりつよく感じられるのであった。
素子と伸子との感情生活は、独特な一つのかたちであった。素子にたいして、誠実であろうとする伸子の一般的なこころもちと、素子に、つよく意識されている伸子への傾注。それを理解し、自分たちの愛として素子のその心を傷つ
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