前の声で皮肉に落ちついて、
「まあ心配してくれなくてもようござんすよ。わたしは、ともかく、男が女に惚れるように、女に惚れるんだから……」
「いや、どうも……何だか失敬なようなことになっちまって……」
 その話はそれぎりになった。
 素子が、伸子をはじめて体裁屋といったのは、そのときだった。
「なんだい、ぶこちゃん、どうして、夫婦のように暮しているのによけいな世話をやくなっていってやらないんだ、体裁屋!」
 しかし、伸子は、
「だって……」
 あの男のほのめかしたのは、どんなことだったのだろう。疑いをまだその目の底に湛えて、むしろ訴えるように素子を見あげながら、
「――ちがう……」
といった。
「だからさ。ああいう奴には、ざっぷり冷水をあびせてやるに限るんだよ。二人が暮している以上、いいたいことはいわしとく位の実意がなくてどうするのさ」
 三年前、文学上の先輩である楢崎佐保子のところで、伸子は偶然来あわせた吉見素子に紹介された。素子の小麦色のきめのこまかい棗形の顔や、上まぶたの弓なりに張った眼。縞の着物と羽織とを着て、帯や帯どめに小味な趣味を示していた素子は、日頃友人のすくない伸子に魅力を感じさせた。佃との生活が、破壊の一歩手前まで来ていた伸子には、佐保子から話された素子の一人ぐらしの生活ぶりも、女が主人となって暮している生活として印象ぶかく、羨しく思えた。伸子は、うちに落ちついていられなくなっている心を、単純に、せっかちに素子に繋いだ。散歩だとか小旅行だとかの習慣をもたない伸子は、素子に誘われて日比谷公園で鶴の噴水を見ながら実朝の和歌の話をしたりした。その歌の話から鎌倉へ遊びに行った。そういう時の素子は、女にこんなひとがあるかとおどろくほど主動的で、つれへのいたわりがゆきとどいて、伸子は楽しかった。実朝のうたの話をしていたとき、伸子はどうした拍子か為朝といいまちがえ、二三度そういってから自分で気がついた。
「あら、わたし為朝っていってやしなかったこと?」
 そういって伸子は顔をあかくした。
「どっちだっていいじゃありませんか、わかっているんだから……ちょっとごたついただけですよ」
 そういって素子は、伸子のばつの悪さを救った。
 伸子が、二度と佃の家へはかえらない決心をして、祖母が暮していた東北の田舎の家へ行った。そのとき、おっかけて楢崎佐保子からハガキが来た。吉見
前へ 次へ
全201ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング