と思えた。
 温室の経営をして、花をあきなって、ロシア文学の翻訳をする男の一人暮しというのも、やっぱり一つの竹村の好みというものではなかろうか。
 建物の外に、ポンプがあって、そこからは畑の起伏と遠い森とが見晴らせた。温室のガラスを焔のようにもえたたせている西日は、溶けたような空の前に遠い森を黒く浮き立たせている。
「なに、ぼんやりしているのさ」
 素子が出て来た。
「すこし歩かせすぎたかな。――じき茶が出るから、こっちで休んで下さい」
 伸子は、六畳のあがりがまちへ腰かけて、土間で働いている竹村を見ていた。
「いずれにしても、一人じゃ、あんまり風雅すぎるでしょう」
 素子が笑いながら竹村にいった。
「なかなかいいところがあるもんだよ、こういう生活も……」
「――もっとも、あんたのその手じゃ、ちょいと細君になりてもないだろうけど」
 土いじりをし、万端の荒仕事をする竹村は火箸をもっている自分の手をちらりと見おろして、
「ふん」
といった。
「手がどうのこうのっていうような女と、誰が結婚なんかしてやるもんか」
 そして、彼のななめうしろに足をぶらぶらさせていた伸子をふりかえった。
「ねえ」
 伸子は、黙っていたが、ふっていた足を一瞬止めた。それはそうだけれど――ねえ、と自分をふりかえった竹村をそのままにはうけつけない感情が、伸子のどこかに動いた。
 竹村がへっついをもやし、素子が土間の七輪で鰺《あじ》のひとしお[#「ひとしお」に傍点]を焼き、伸子が笊《ざる》に入っている茶碗を並べて、むき出しの電燈の下で夕飯がはじまった。
 たべ終って、竹村がレコードを聴こうといい、伸子が、何となし気もすすまないでいるとき、急に、土間の隅で、何か生きものがさわぐような物音がした。
「何だろう、鼬《いたち》かい?」
「鳩だよ」
 土間をすかし見ながら竹村がいった。
「つがいでいたのに雌が逃げちゃって、一羽のこってるんだ。夜ときどき出して飛ばしてやると、面白いね、そこの鏡に自分が映るだろう。それを仲間だと思うんだね、きっと。何べんも何べんも鏡へくちばしをぶっつけるよ」
 古風な大きな飾鏡が、浅い床の間の柱にかかっていて、今はぼんやりとその面に電燈の光をうつしている。男が一人いる夜の部屋の中を白い鳩が翼をはためかして鏡のなかにうつる自分の姿を雌かと思って一心に近よろうとする光景を想像して、伸
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