子が十五六の頃、小学校の同窓会雑誌に書いた、幻想的な作文のことなのであった。伸子は二十九歳になっていた。どうして、十五の少女のこころにかえることが出来たろう。伸子は、煙にむせて窒息しかけながら、そのトンネルはぬけきることを決心した者のように、小説を書きとおした。小説は、ある先輩の婦人作家のところで、偶然素子と知り合うところで終り、佃との破局的な情景が最後に描かれていた。
片手を机の上へ頬杖につき、右手で雑誌から切りとったその小説の綴じあわせをめくりながら、伸子の面には、徐々に、しかしまぎらすことの出来ない力で迫って来る沈思の色が濃くなった。
その小説をかき終って、伸子は一つのまじめな事実を学んだ。それは、佃も、女主人公の母も、女主人公そのものも、一人として悪人というような者はその関係の中にいなかった、ということである。佃にしろ、時と場所とをへだてて一人物として見ればむしろ正直な人であったことがわかった。多計代が、どういう男を好む性質かというような効果を捉えて行動したり、伸子への感情の表現を、多計代の気にもかなうように粉飾したりすることを、佃は知らなかった。越智の存在とその多計代への影響のありかたを見くらべると、今伸子には佃のぎごちない、光のとぼしい正直さが理解された。佃が正直であったということについて、伸子は、女としてもっとも機微にふれた発見をしていた。二十を越したばかりであった伸子は、ほとんど倍ほど年長の佃と結婚しようと決心したとき、母になることを恐怖した。子供をもつということが、本能的に警戒された。佃は伸子のその不安について約束したことを、一緒に暮した最後の場合まで守った。離れようとしてまたひきもどされる夫婦の、暗い激情の瞬間に、佃がそのときを利用しようとすれば利用出来たいくつかの機会があったことが思われた。しかし、佃は苦しい蛾のように伸子のまわりに羽ばたきながら、約束は破らなかった。伸子を自分の子の女親とすることで、自分にしばりつけようとはしなかった。
伸子が佃の家を出て半年ばかりたったとき、伸子にたいして憤慨した佃の友人たちが、佃を最も幸福にしてやれると思われた一人の婦人を紹介して、佃はその人と結婚した。今度は、どうしても子供をもつことだ、と決めたということを、伸子は、どこからともなく吹きまわして来た話として聞いた。
「それもよかろうさ」
素子はその
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