に、伸子がかがんでいると、歩いて来たままの調子でたたきへ下駄をぬぎすてるようにして、素子が外から帰って来た。そして、
「――ばかにしてら!」
手にもっていたがまぐちを伸子の机の上に放り出した。
「かからなかったの?」
この辺に電話をかりるところがなかった。素子は電車の停留場のそばまで行って、聰太郎のところへ電話して来たのであった。
「かかりましたがね、おつまは来ないんだってさ」
「――……」
伸子には、それを残念という風なあいづちはうてなかった。
「都合がわるくなったのかしら……」
「さあ、どうしたんだか。痴話喧嘩でもして気がかわったんだろう」
ふところでをして、縁柱にもたれ、素子はまた、
「ひとをばかにしてる!」
といった。そして、むっとした口もとをした。
「いいじゃないの、私は書くものがあるんだし、あなたの翻訳だって、もう一息のところなんだもの……」
「ぶこちゃんは、ああいう連中に偏見をもってるから、そう思うだろうさ。だけれど、ばかにしてるじゃないか。ああやって手紙よこせば、私がそれに対して放っておける人間かどうか、おつまは百も知りぬいているくせに……聰さんのところへ電報よこすなら、当然、こっちへだってよこすべきさ」
「聰太郎さんのところへは電報が来たの?」
「そうだとさ。きのう来たそうだ。――おつまみたいな女でさえ、そういうやりかたする、だからいやさ」
永年のつき合いのおつまが、素子の実意を軽くあしらい、そんなことでもおのずから男の聰太郎と女の素子との間の取扱いに差別をつける。その点を素子は立腹しているのであった。素子には、対人関係で、傷つきやすい性格があり、
「動坂のお母さんみたいに、情熱なんて、私は真平《まっぴら》ごめんだ。こまやかさがなくて、人間、どこにいいところがあるんだ」
毎日の生活の中にも、伸子がこれまでの暮しでは知らなかった、細かい素子の感情があるのであった。
しばらく柱によりかかっていた素子は、やがて隣の部屋へゆき、きれいな、えんじ色にすきとおったパイプにたばこをつけ、それをくゆらしながら自分の机に向った。原稿の綴じたのをよみ直す気配がした。
「ぶこちゃん――いるかい?」
「いてよ」
「この、手紙の終りにいつもついてる、誰それにお辞儀して下さい、って文句ね、直訳だとそうしかいいようがないんだが、何だかしっくりしない」
チェホフは
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