とりごとのように、
「ロシア語ばかりじゃあなくね」
とつぶやいた。うっとりした唇からもれたようなその言葉の調子に伸子の心がひかされた。
「なにをしようというの? ロシア語のほかに――」
 蕗子は急に目をさまされたような様子でしばらく伸子をみつめた。そして、また人なつこい小声で、
「いろいろあるでしょう?」
 小首をかしげてそういった。しかしそれぎり、気をかえたらしく蕗子ははっきり坐り直した口調になって、
「わたしにどんなお手伝いができるでしょうか」
 素子にきいた。
「おっしゃって下さい。出来ることでしたらなんでもよろこんでいたしますから」
 伸子たちはすぐにも、家の始末にとりかからなければならなかった。それには、まず本のかたづけが一仕事であった。
「こんどは、ごく信用の出来る人だけにたのみますよ。この前ここへこして来るときみたいに、あんな大切な本とられたりしちゃたまりゃしない」
 老松町からこの郊外の家へ越して来るとき、一二度遊びに来た学生が手伝った。その青年がかたづけながらひろげて見ていたモスクワ芸術座の立派な写真帖が、あとからどうさがしても見えなくなっていた。そして、その学生は、もうそれきり素子のところへ出入りしなくなった。
 課業が終ってから、素子は、
「いそがないんなら、夕飯をたべていらっしゃい」
と蕗子をさそった。
「あなたが使うようにのこしておく本なんか、そろそろ選んでおかなけれゃ。こんなときは、あとへゆくほどごたつきますからね」
 夕飯のできるまでと、伸子は、いつも電話をかけている停留場わきの酒屋へ出かけた。そして、本をつめて、動坂のうちの土蔵にあずかって貰うためのビールのあき箱を、十個ぐらい註文して来た。帰ってみると、ロシア語関係の辞典類をすっかりひとまとめにして積み上げた卓の前に、素子と蕗子が一服していた。入ってゆく伸子を見上げて、
「こまっちゃったよ、ぶこちゃん」
 素子が、辞典のつみ重ねを目でさした。
「――これだけで一荷物だ」
「ダーリのようなものは、かえってむこうではいらないんじゃないでしょうか」
 そういう蕗子の注意で、素子は大判の幾冊もある百科辞典風の大辞書をとりのけた。
「ぶこちゃんの本は、どの位になるかい」
「さあ」
 伸子は、まだ揃えてなかった。歴史の年表。日本の辞典。簡単な日本と世界の文学史。そんなものの必要はすぐわかった。け
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